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竜飛岬の吉田松陰・司馬さんの津軽路 2005年7月24日

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( ムクゲの花・ ブロギニストの散歩道から)

1994年司馬遼太郎さんの津軽路の旅は、3人の
人物を意識していたように思う。

まず、青森県金木町出身の作家・太宰治。
(このブログでも触れた。6月12日付)
次に、弘前出身の明治の言論人・陸羯南。
(これについても、このブログで既に触れた。7月19日付)

そしてもう一人、幕末の志士、吉田松陰である。
松陰は、1852年(嘉永5年)、友人宮部鼎蔵とともに、
東北旅行をし、青森の津軽半島を訪れている。
ペリー来航の前年に当たる。

吉田松陰このとき22歳。
国際的に緊迫した北の海をその眼で確かめるため、
冬の津軽半島の道なき道をたどったという。

津軽半島へは、1994年の夏マイクロバスで行った。
行きは、海外線だったが、帰りは曲がりくねった山中の
道を通った。

その時のことが、街道をゆく・北のまほろばに出てくる。
「私は、谷ごとに谷底を見た。
松陰のことをおもった。」

松陰の日記によれば、雪の深さ2・3尺の山道を
22歳の松陰は、ひたすら歩んでいたという。

「いまも松陰が、渉っていないかと、その文章を思いつつ、
谷底を見た。
松陰は小柄で痩せた青年だった。
武芸よりも書を読む人だった。
その松陰にして、水をわたり、あるいは積雪にまみれ、
旅衣の乾くいとまもなく、この道のない地形を
踏破したのである。」

あの時、マイクロバスの最前列でじっと、外の風景を
見つめていた司馬さんは、青年吉田松陰に思いを
はせていたのだ。
ひょっとしたら、一瞬松陰の姿を垣間見たのかもしれない。

松陰は、この旅から7年後、安政の大獄のとき刑死する。
常に、実証精神で現場を踏もうとした松陰の想いが、
いまも新鮮に感じられる。


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by kitanojomonjin | 2005-07-24 16:47 | 司馬遼太郎さんの津軽路