c0069380_11303387.jpg

(ブロギニストの散歩道から)

美術館を訪ねて、折悪しく休館日というときほど、
残念なことはない。海外の場合は、特にそうである。

ウィーンの美術史美術館を訪ねた時がそうだった。
チャンスは、その日しかなかった。
ワラにもすがる思いで、入館案内をめくっていたら、
そんな人のために、夕方の数時間開館するサービスが
あることが、わかった。

なかなかイキな計らいである。
(今もやっているかはぜひ確認してみてください。)

あまりこのサービスは、知られていないようだった。
入館者は、自分以外ほとんどだれもいなかった。
美術館内の作品をじっくり見ることが出来た。

圧巻は、ヴェラスケスの部屋である。
スペイン王家の王子皇女の肖像が、つぶらな瞳で
こちらを見ている。
いずれも、幼くして亡くなり、薄幸の運命を
たどっているという。

次に、ブリューゲルの部屋。
北欧の人々の暮らしが、いきいきと描かれていて
飽きない。

気がつくと、いつしか夕陽がさしこみ、ハプスブルグ家の
残照の濃密な時間を心ゆくまで堪能できた。

これも、国際都市ウィーンのイキな計らいのおかげである。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-15 11:21 | 旅の街角から | Comments(2)

c0069380_193333.jpg

(ブロギニストの散歩道から)

ドイツ人に益々親近感を抱く事になる旅を
1990年にした。

ドイツ人の作曲家に「MANDARA」という番組の
ために作曲を依頼しに行ったことがある。

作曲家の仕事場は、ウィーンにあった。
音楽関係は、ズブの素人だが、とにかく会って
番組意図を理解してもらうしかない。
当って砕けろという気持ちで、ウィーンをたずねた。

5月下旬のウィーンは一年で最も心地よい季節だった。
ウィーンの街を行き来する真っ赤な路面電車が
印象的だった。

ウィーンの街から少し離れた森の中に、作曲家の
別荘兼仕事場は、あった。

門から入って、玄関にたどり着く前に、庭に
不思議なものを見た。
どう見ても、日本の鳥居である。
小型の鳥居が、庭の中心に立っていた。

その時、直感した。
この交渉は、うまくいくかもしれないと。

案の定、交渉は、上首尾に終わった。

作曲家から、開口一番出た質問は、
「リインカーネーション(輪廻)をどう思うか?」
であった。

作曲家は、すこぶる東洋思想に関心が深い
人物だったのだ。

汗だくになりながら、ブロークン・イングリッシュで
曼荼羅について、仏陀について語った。

不思議な事に、つたない説明でも、理解して
うなずいてくれているような気がした。

後でわかったが、この作曲家に限らず、
ドイツ人は、東洋思想特に、仏教や禅に関心を
もっている人が多いという。

無事、交渉が終わり、近くの川魚のレストランで
川風にあたりながら、飲み交わしたワインの
おいしかったこと。

それにしても、ずいぶん無謀な交渉だった。
もう少し、仏教を英語で説明できる力があったら、
もっと親しくなれたのにと悔やまれる。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-13 19:41 | 旅の街角から | Comments(0)

c0069380_14424381.jpg

(ブロギニストの散歩道から)

1989年12月、ベルリンの壁が崩壊して2ヵ月後の
ベルリンを旅した。ベルリンは、嵐のあとの静けさの
中にあった。

スペインのマドリッドから、ベルリンのホテルに
着いたとき、なぜかほっとした気分になった。
ホテルのフロントの応対、そしてこじんまりした
部屋の機能が、ビジネスホテルとして、とても
しっくり感じられた。

お湯も出れば、シャワーも浴びれる。
過剰な装飾はないが、掃除が行き届いていて
清潔であった。室内の空調もほどよく効いて心地よい。

文明とは、こういうほどよい心地よさをコンスタントに
提供できる力ではないかと思ったりした。

その前のマドリッドのホテルがまったく反対の
ラテン的もてなしのせいだったため、一層
そのように感じられるのかもしれない。
ドイツ人は、意外に日本人と感性が近いかも
しれないとこの時思った。

ホテルの近くに、ベルリン動物園があった。
時間があったので、のぞいてみた。

動物園は、人もまばらだった。
映画「第三の男」の1シーンにあったスパイと
待ち合わせる場面を思い出した。(植物園だった?)

しかし、わたしにコンタクトする物好きな秘密諜報員は
現れなかった。

順を追って見ていくと、北方系のオジロワシ、オオワシ、
そして空飛ぶゆきだるまと言われるシロフクロウがいた。
見かけによらず、充実した動物園である。

そして、とうとう意外なものに出会えた。
パンダである。

当時、日本では、大人気で人ごみ越しにしか見れない
パンダが、ベルリン動物園では、退屈そうに鎮座していた。

冬枯れのベルリン動物園のパンダ。
ドイツ人の律儀さと完璧主義は、さりげなくパンダさえも、
コレクションのひとつに加えていたのである。

なぜかますますドイツ人に、親近感が沸いてきた。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
                          
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-13 15:23 | 旅の街角から | Comments(0)

c0069380_20262894.jpg

(ブロギニストの散歩道から)

梅雨の季節になった。
一週間後の6月19日は、太宰治の桜桃忌である。
三鷹市の禅林寺の太宰治の墓には多くのフアンが
駆けつけることだろう。

ところで、作家の司馬遼太郎さんほど、太宰治を
評価していた人はいなかった。

1994年、街道をゆくの北のまほろばの取材で、
司馬さんは、青森を訪ねた。
たまたま青森に勤務していたわたしは、ふるさと
青森の案内役を買って出たことがある。

その時、親しく司馬さんのお話を伺うことが出来たのは、
忘れられない思い出である。
司馬さんは、なにしろ座談の名手である。
夜遅くまでお話は尽きなかった。

津軽の旅で、司馬さんが繰り返し話されたのは、
太宰についてであった。

ふつうわれわれは、中高生の時、ハシカのように
太宰を読みふけり一過性で終わってしまう。

しかし、司馬さんの場合、太宰を読み始めたのは、
40代過ぎてからだったという。
しかも凄いのは、太宰治全集を断簡断章にいたるまで
2度読んだという。
その結果、次の結論に達したという。
「太宰治を除いては、日本文学史は語れない」

それは、こういうことであった。
明治以来、二葉亭四迷、夏目漱石などの文学者は
愛も語れば、政治も語れる日本語を生み出すのに
苦労してきた。
その中で、太宰治こそ日本語の柔軟な可能性を
最大限に切り開いた功労者だというのである。

司馬さんのように、いつか太宰治全集を断簡断章に
いたるまで読んでみたいものだ。
当分難しいかもしれないが。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-10 20:55 | 司馬遼太郎さん | Comments(7)

c0069380_18555488.jpg

手元にある一個のキーホルダー。
表面は摩滅して見にくいが、そこには、ソ連・米・英・仏の
四カ国によって分割されたベルリンの地図が描かれている。

1989年10月、ベルリンの壁が崩壊して、この地図は、
過去の遺物になった。
ベルリンの壁崩壊から2ヵ月後の12月。わたしは、
駆け足で、ベルリンを訪ねた。
ベルリンの博物館島を中心としたベルリン美術館を
下見するためである。
同行し案内してくれたのは、現テレビマンユニオンCEOの
重延浩さん。

ベルリン美術館は、複数の美術館の連合体として
存在している。これは、ドイツ人の律儀さと博物学への
こだわりの産物である。

その美術館連合の膨大なコレクションは、第2次世界大戦で
大きなダメージを受け、冷戦下には、西と東に引き裂かれた。
それは、現代の悲劇そのものであった。

後に、重延さんの熱意が実を結び、「ベルリン美術館」という
テレビ・シリーズになった。

そのころお土産として、ベルリンの壁のカケラと称するものも
多数売っていた。
一方、このキー・ホルダーは、ベルリンの壁崩壊後、無用の長物と
なり、捨て値同然で並んでいたものを手に入れた。

不思議なものである。
16年後の今、歴史の証言者として、壁のカケラよりは、
このキー・ホルダーの方が、存在感を増しているような気がする。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-10 19:43 | カルチャー通信 | Comments(0)

c0069380_13523533.jpg

(写真提供 NPO 三内丸山縄文発信の会)

東回りで世界一周に挑んでいた堀江謙一さんが、
6月7日、西宮のヨットハーバーに無事到着した。
その時の第一声は、兵庫の山々を眼にして、
「懐かしい」という言葉だった。

きのう「懐かしい」という感情は、定住とともに
縄文時代から始まったという藤森照信さんの
見解を紹介したばかりだった。

これは、わたしが以前から考えていた
「縄文はふるさとの原点」という考えに、奇しくも
符号する。その意味で、おおいに力づけられた。

日本各地に現在ある数多くの縄文遺跡。
それは、縄文人の生き残りをかけたふるさと選びの
結果ではないかというのが私の考えである。

移動から定住に移る時に、縄文人は智恵の限りを
尽くして、定住の場を選んだことだろう。

だからこそ、そこに住み続け、「懐かしい」という
感情も生まれ、いつしかそれは、ふるさとの意識に
定着していったのではないだろうか。

とすれば、縄文遺跡をウオッチングすれば、
太古の昔、縄文人がその土地のどんなところに
魅力を感じ、最終的にふるさとと定めたかを
推理していくことが出来るのではないか。

その意味で、縄文遺跡は、ふるさとの原点であり、
ふるさとの魅力を映し出す鏡だと思う。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-08 14:13 | 縄文 | Comments(0)

c0069380_16193862.jpg

藤森照信の「人類と建築の歴史」という本を
読んだら、とても興味深い事が書いてあった。

「懐かしい」という感情は、縄文時代の定住が、
はじまってから人類に芽生えたものではないか
というのである。

そのくだりを紹介しよう。

 「漁期(秋の鮭の)が終わって獲物を背に岐路につき、
  峠の上から村の光景を望んだ時の気持ちを想像して
  みよう。
  自分が修学旅行や夏休みの休暇で長期に家を
  空けた時のことを思い出してください。
  懐かしいと思う。どうしてそう思うのか。」

峠から望む光景は、黒澤の映画の1シーンを
連想させるほどこれも懐かしい。
ところで、藤森照信は、ここでグイと本題に入る。

  「懐かしいという心の働きは、喜怒哀楽の感情とはちがう
   不思議な感情で、人間にしかない。
   犬は古い犬小屋を振り返ってシミジミするような
   ことはしない。」

古い犬小屋を見て、シミジミする犬も、広い世間には
いるかもしれないが、それにこだわるとわき道に
それるので、先へ進もう。
藤森は、ここから一気に、極めて本質的な結論へ導く。

   「その時、自分の心の中では何が起きているんだろう。
   おそらくこうなのだ。久しぶりに見た家が昔と
   同じだった事で、今の自分が昔の自分と同じことを、
   昔の自分が今の自分まで続いていることを、
   確認したのではあるまいか。
   自分はずっと自分である。
   人間は自分というものの時間的な連続性を、
   建物や集落の光景で無意識のうちに確認して
   いるのではないか。
   新石器時代の安定した家の出現は、人間の
   自己確認作業を強化する働きをした。」
   
   「このことが家というものの一番大事な
   役割なのかもしれない。」
   
藤森照信は、こんなユニークな発想で建物の歴史を
考えている。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-07 10:02 | 縄文 | Comments(0)

c0069380_1914371.jpg

(堤隆さんからの封書に印刷された言葉)
(なかなかシャレていますね。)

最近、直立するレサーパンダなどが、話題になっているが、
二足歩行はいいことばかりではないらしい。

人類は、直立し、二足歩行することによって、ずいぶん
ハンディを背負った面があるという。

縄文塾での浅間縄文ミュージアムの堤隆さんのお話で
ネオテニー(幼形成熟)という言葉を聞いた。
直立することで、頭が大きくなり、出産に困難を
きたすようになった。
その結果、人類は、それまでの 母親の胎内にいる期間が、
半分になり、およそ40週で出産するようになったという。

その結果、未熟なまま誕生しその後の養育期間が
長くなったというのである。

この話は、縄文塾に参加した女性に大いに受けた。
なるほど、それで人間の子育ては、こんなに長く
苦労させられるのかという実感がこめられていた。

このほか、腰痛とかさまざまな弊害もあるという。
腰痛については、わたしも共感できるので、
人類が、二足歩行した代償を背負っていると思えば、
腰痛も人類的な苦悩として、我慢できようというものである。

21世紀に縄文人をはじめ現生人類の気配を
感じる効用は、こんなところにもあるのかもしれない。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-03 19:25 | 縄文 | Comments(0)

c0069380_18213824.jpg

(縄文塾での堤隆さん・写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

堤隆さんの「黒曜石3万年の旅」のお話で、興味深かったのは、
1991年、長野県の山の傾斜地で謎のクレーター状のくぼみが
200箇所以上発見されたことである。

なんとこれは、縄文人が黒曜石を採掘した後だった。
その名も、星糞(ほしくそ)峠。
黒曜石が、黒くキラキラ輝いているところから、星くそとも
よばれ、その名が付いているという。

この発見は、縄文鉱山として、一躍注目を集めたという。
縄文人が、どのような社会のしくみの中で、黒曜石の
発掘をしていたのか興味の尽きないところである。

 参考文献:堤隆さんの著作「黒曜石3万年の旅」(NHKブックス)


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-03 18:37 | 縄文 | Comments(0)

c0069380_17425328.jpg

(黒曜石・写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

黒曜石3万年の旅のお話を、浅間縄文ミュージアムの
堤隆さんにうかがう機会があった。
(5月20日開催された縄文塾にて)

写真の黒光りした石が、黒曜石である。
この石匙(いしさじ)は、青森の三内丸山遺跡で出土した。

黒曜石の主な産地は、北海道と信州である。
黒曜石のスグレた点は、その成分分析から、
産地を特定できることである。
京都大学原子炉実験所の藁科(わらしな)哲雄博士などが
もっぱら分析に当たっている。

この分析から、黒曜石が、ずいぶん広範囲に旅を
していることがわかってきた。
たとえば、三内丸山では、写真の石匙は、北海道産。
さらに、長野県霧が峰産の黒曜石の石族も出土したという。
黒曜石はずいぶん長旅をしていることになる。

黒曜石の旅で、最も興味深いのは、太平洋の神津島の
場合だろう。神津島原産の黒曜石が、関東各地から
出土している。
黒曜石は、海を渡っているのだ。

中には、縄文時代をはるかにさかのぼる旧石器時代
3万年前のものも含まれている。

神津島の黒曜石はどのようにして海を渡ったのだろうか。
皮袋のいかだ説、丸木舟説などさまざまな意見がある。

あなたもこの謎を推理してみたらどうだろうか。


お読みいただいた記念にランキングをクリックしてください。
人気blogランキングへ
[PR]
# by kitanojomonjin | 2005-06-03 18:11 | 縄文 | Comments(0)