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縄文ファイルの最新号が届いた。
これは、わたしたちのNPO法人三内丸山縄文発信の会の
機関紙で、毎月発行され、現在117号を数える。

創刊されてから、早10年になる。
よくここまで来たものだと思う。

中味は、三内丸山遺跡の最新情報をはじめ、
縄文塾・シンポジウムの紹介そして、広く縄文の情報が
掲載されている。

なんといってもその特徴は、必ず英文の要約をつけたことだ。
世界に縄文を発信しようという意気込みではじめた。
翻訳してくれる人を探すのにおおわらわだった。

現在は、通信社の元海外特派員のMさんに、お願いしている。
専門用語が多くて、大変なご苦労である。
最初は、縄文は、どうやって訳したらいいのかも悩んだ。
結局、JOMONで行くことにした。

10年も続けていると、うれしい話もある。
外国の研究者の論文に、引用された時は、うれしかった。

さらに、三内丸山を訪ねたニューヨーク・タイムスの記者が、
売店においてあった縄文ファイルに興味を示して、
執筆者に連絡してきたことがある。
英文が、ネイテブの人に近く共感をもたれたという。
ボランテアの翻訳者に感謝すること大である。

さて、その最新号には、今年のお月見縄文祭の案内が出ている。
今年は、8月20日に、三内丸山遺跡で、お月見コンサートが
開かれ、それに先立って、シンポジウムとワークショップが
開かれる。
詳しくは、三内丸山縄文発信の会事務局まで、
お問い合わせください。
tel.017-773-3477


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# by kitanojomonjin | 2005-07-22 19:43 | 縄文 | Comments(0)

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(弘前の街から望む岩木山)

1994年、作家司馬遼太郎さんが、街道をゆくの
取材で、津軽を訪れた時、たまたま津軽を案内する
機会があった。

その年の1月、雪の青森のグランドホテルで、司馬さんと
お目にかかったとき、最初に出たのが、陸羯南の漢詩の
話だった。

「名山名士を出だす
此語久しく相伝う
試みに問う巌城の下
誰人か天下の賢」

弘前高校時代、いつもS先生がこの詩を披露し、
ぐるりと見渡して、
「名山名士を出だすというが、いまだに名士が出ていない。
諸君奮起せよ」
と発破をかけられましたと報告したら、司馬さんは
そうですかとうれしそうに聞いておられた。

明治の言論人・陸羯南(くが・かつなん)が、こんな
形でふるさと弘前で語り継がれていることを
うれしく思われたのだろう。

司馬さんほど、明治の言論人陸羯南を高く評価した
方はいない。
津軽路の旅で、太宰治の次に登場したのが、陸羯南の
話だった。

新聞「日本」の主宰者だった陸羯南は、正岡子規を
終生面倒みた人物としても知られている。
子規は、陸羯南を徳の人とたたえ、尊敬していた。
病気で激痛に悩まされた子規を陸羯南は、つきそい
励ました。
徳のある人に、手を握ってもらうと痛みも和らぐと、
子規は、手紙に記している。

司馬さんは、ここまで話すと、決まって身を乗り出して、
「このような徳の人・陸羯南の魅力をしっかり描いたものは
まだない。
それは、あなたたちの仕事ではないですか」
といわれた。

とにかく、陸羯南の周りには、彼を信奉する人々の輪が、
出来ていたという。

明治の言論人陸羯南の魅力を改めて、浮き彫りにすること
それが、司馬さんから託された宿題である。

まだまだ、その実現には時間がかかりそうであるが。



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# by kitanojomonjin | 2005-07-19 14:10 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(岩木山)

1994年、作家司馬遼太郎さんは、街道をゆくの取材で
津軽をはじめ、青森県を訪ねられた。
たまたま青森にいたわたしは、司馬さんの津軽路の旅を
案内する機会に恵まれた。

あれから10年余り。
旅の思い出をすこしずつたどってみたい。

津軽は、わたしのふるさとである。
津軽を案内するときの悩みはたったひとつ。
天気が晴れて岩木山が見えるかどうか。

岩木山が見えさえすれば、津軽路の旅の案内は、
何の問題もない。
岩木山のみえる最適スポットにご案内すれば、
あとはそそり立つ岩木山が様々な表情を見せ、
語りかけてくれるのだ。

ところが、司馬さんが津軽に見えたのは、
一年のうちで、岩木山の見える確立の最も低い
冬1月のことだった。

結論からいうと、その日奇跡的に、晴れ間から
岩木山は顔を覗かせてくれた。
しかも、わたしたちが、小さい時から岩木山を
望むなら第一の場所と教えられてきた場所で。

それは、弘前城本丸から望む岩木山である。

司馬さんは、岩木山の印象を「街道をゆく・北のまほろば」の
中で次のように記している。

「私ものぼりつめてから、天守閣を見るよりも、
台上の西北が広かつに展開していて、吸い寄せられるように
天を見ざるを得なかった。
その天に、白い岩木山が、気高さのきわみのように
しずかに裾をひいていた。
息をのむ思いがした。」

案内役としては、ほんとうに、岩木山に感謝という気持ちだった。

そしてこの時、司馬さんは、弘前城本丸の主人公は
岩木山であることを看破された。



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# by kitanojomonjin | 2005-07-09 16:20 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(万里の長城・八達嶺の入場券)

中国の八達嶺は、北京から最も近く手軽に行ける
万里の長城である。
それだけに観光客も多い。
何度かここを訪ねたことがある。

ある時、八達嶺から北京へ帰る途中、交通事故で
幹線道路が一時閉鎖され、迂回路を通った。
それは、北京を中心にして円を描くように伸びていた。

そこに、北京の経済を支えるもうひとつの顔を
見ることが出来た。

舗装されていない土煙の道路は、トラックがひしめき
大混雑だった。
資材や食糧をつんだトラックに混じって、蜜蜂の箱を
積んだトラックもあった。
そこから大量の蜂が飛び出し、ブンブン飛び回っている。

少しでも前へとトラックがひしめき合い、ますます
身動きが出来なくなる。
ブーブーとクラクションが鳴り止まない。

車の列の間を西瓜売りが、たくましく走り回る。
まさにアジア的混沌そのものである。

なぜこんなにこの道路に集中するのだろうか。

一説には、ほかの道は有料なのに、この道は無料だから。
おまけに、北京に入る時取られる税金を
払わなくていいからとも。

気の遠くなるような時間が経過した後、
突然車の列が動き始めた。
そして、何事もなかったようにトラックは、猛スピードで
消えていった。

大消費地北京の経済は、地方と結ぶこんな裏街道に
支えられているのだと実感した。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-08 19:09 | 旅の街角から | Comments(0)

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(むくげの花・ブロギニストの散歩道から)

万里の長城・司馬台から北京への帰路は
だいぶ夕暮れ近くなっていた。

道路沿いに人々が三々五々出て、夕涼みを
している。夕暮れ時のひととき、人々は遠くを見つめ
しばし心を解き放つ。

日本では、こんな光景はもう見られなくなった。
子どもたちは、塾にしばられ、老人たちは、家の中の
テレビにしがみつく。
かくして、日本の人々は、夕暮れ時の楽しみを
忘れてしまった。

ところが、最近、昭和初期の日本人は、そうでは
なかったという文章を眼にした。

「東京に暮らす1928-1936」(岩波文庫)という
本である。
キャサリン・サンソムという英国の女性が書いたものである。
その一節にこんなくだりがある。

「日本人は生きていくために必要な養分を自然から
得ているといってもよいでしょう」

「日本人はじっと座って何時間も同じ風景を
眺めているいることがありますが、自然を
見つめることで精神の大きな糧(かて)を
得ているのです。
自然に対するこのような姿が、心の落ち着きという
日本人のおそらく最も素晴らしい性質の基礎に
あるに違いありません。」

現代の日本人には、失われてしまった姿が
そこにある。

それは、むしろ中国の田舎でゆうゆうと夕涼みする
人の姿の中にあるような気がする。

中国が懐かしく思う背景には、その辺のこともありそうだ。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-07 19:29 | 旅の街角から | Comments(0)

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(万里の長城・司馬台)

万里の長城のひとつ、司馬台に登ったのは、
1999年夏のことだった。

北京の周辺にいくつか残る万里の長城の中で、
司馬台は、最も険しく最も景色がいい。
なによりも訪ねる人が、少ないのが魅力である。

北京の北西へ、土煙の中、4時間ほど進む。
周りがのどかな田舎の風景になり、やがて
山道になる。

車を置いて、山道を1時間ほど登ると、
山の尾根に作られた長城にたどり着く。

さらに、長城の階段を黙々と歩く。
登りと下りの階段を繰り返していると、しまいに
膝ががくがくしてくる。

階段に座り込むと、尾根を渡る涼風が頬をなでる。
人類は、なぜこんなものを作ったのだろう。
歴史の不思議を感じる。

司馬台の麓で、食事をとった。
テーブルにつくと、全員が紙ナフキンを使って、
コップを拭く。
黄土の細かい土がこびりついているのだ。

つぎに、店の人に念を押して、冷えたビールを
注文する。
黙っていると、人肌の(常温の)ビールが出てくるからだ。

いずれにしても、くたくたになった万里の長城行と
そのあとのおいしいビールの味は、忘れられない。

万里の長城を黙々と歩くことが、けっこう病みつきになり、
幾度か、北京周辺の万里の長城を訪ねることになった。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-06 19:57 | 旅の街角から | Comments(0)

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 (1999年・天津)

初めて中国へ行ったのは、1999年の5月末の
ことだった。

まず驚いたのは、車にぶつかってくるように街に溢れている
自転車の数だった。

「レッド・チャイナでは、赤信号は、進めだ」という
ジョークがあるくらい信号に関係なく自転車が
氾濫し、人々の熱気に感動した。

さらに、こんな小話も聞いた。
「中国の車の運転手は、みな優秀である。
なぜなら、下手な運転手は、みな事故で死んでしまったから」
ブラック・ユーモアである。
 
ところが、この5~6年のうちに、驚くほど中国は
様変わりした。
北京の変わりようは、目を見張るものがある。

中国は癖になる。
しばらく行かないと無性に懐かしくなる。
中国は、不思議な魅力に溢れた土地である。

「もっと早く中国に来る機会があればよかった」と
つくづく悔やまれた。
良きにつけ、悪しきにつけ中国を知らずして、アジアも
世界も語れない。

しばらく中国の魅力の断片をたどってみたい。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-05 20:03 | 旅の街角から | Comments(0)

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うっとおしい梅雨である。
しばし、旅の思い出にふけることにしたい。

名刺入れに、1枚の店の案内のカードが入っていた。
その名も「大三元」。
パリ・カルチェラタンの一角にある小さな中国料理店。
ひょいと裏道に入ったところにある。

室内は、濃い赤のカーテンが下がっていて、
古いテーブルが5つ6つ。
まったく人気(ひとけ)がない。

店は、やっているのだろうかと不安になったころ
小柄な年配の男性が、カーテンの陰から、ひょうぜんと
現れる。

「ボンジュール・ニイハオ」
笑みをうかべ、もみ手をしてその実直そうな男は、
ひょうぜんと現れる。

とりあえず、青島ビールと水ギョーザと野菜の炒めたのを
一皿頼む。

「メルシィ」といって、その男は、カーテンの陰に消える。
ところが、この味がなかなかいいので驚く。

青島ビールは、ほどよく冷えて、水ギョーザは少し
皮が厚いのを除けば、いい味である。
パリでこんなおいしいギョーザを食べられるとは
思っていなかった。

パリでは、タイ料理やベトナム料理などのアジア料理が
美味である。
花のパリで鍛えられた味に、人生の苦労のスパイスが
加味されて、おいしい料理が生まれるのかもしれない。

店を出る時、カーテンの陰から、小柄な男が
ひょうぜんと現れて、「メルシィ・シェシェ」といって姿を消した。

あれから大分時がたったが、小さな中国料理店は、
まだちゃんとあるだろうか。

いつか機会があったらまた訪ねてみたいものである。



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# by kitanojomonjin | 2005-07-04 18:18 | 旅の街角から | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

南フランスのカンヌからニースの険しい山の頂上に
中世の王侯が立てこもった城郭の跡がある。

いわゆる「鷹の巣村」といわれるものである。
たしかに、小山の上にちょこんと城郭の在るさまは、
「鷹の巣」そのものである。

ところが、古ぼけた外観と異なり、一歩中へ足を
踏み入れるとガラリと印象が変わる。

ガラス工芸や民芸のしゃれた店、それに心地よい
レストランが、ずらりと並んでいるのである。

かつて、そうした鷹の巣村の一つを訪ねた時のこと。
突然、雷が鳴り響き、雨が落ちてきた。
雨宿りをかねて、石畳の坂道に面する一軒の店に
飛び込んだ。

そこは、手作りの木彫品の並ぶ石造りの店だった。
おばあさんがひとり店番をしていた。

「どちらから」「日本から」と問わず語りに話していると
このおばあさんは、びっくりする話をし始めた。

おばあさんの孫は、アメリカに留学しているという。
アジアにいっている孫もいるという。

その時、この鷹の巣村の実体がわかったような気がした。

鷹の巣村は、古城を舞台にしながら、まったく新しい
コンセプトの街づくりが、進められているようなのだ。

そこは、地元の山村の人たちではなく、新しい文化と
暮らしを目指す人たちの場所なのだ。

文化的コンミューンといっていいかもしれない。

ここには、人不足で頭を抱えている日本各地の「鷹の巣村」を
生き返らせるおおきなヒントが含まれているような気がする。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-01 19:31 | 旅の街角から | Comments(0)

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(三内丸山遺跡カタログより)

1994年青森市の郊外に姿をあらわした三内丸山遺跡は、
野球場予定地がそっくり、縄文の大集落のほぼ全容を
示すものだった。

これを天地人の「地の利」とすれば、「人の利」にあたるのが
現地説明会への圧倒的な参加者の数である。

最高気温33度の炎天下、8月6日・7日の2日間にあわせて
8000人の人が、現地を訪れた。

その時の人々の肉声を当時朝日新聞社青森支局にいた
阿部俊幸記者が、縄文ファイルに次のように紹介している。

青森市の85歳の男性
 「柱はよく残っていた。驚いた。そばに住んでいるので、
  足を運ばないと申し訳ないと思った」

青森商業高校の16歳の男性
 「自分が住んでいる所に、こんな大きな遺跡があったことが
  うれしい。すごい、というのがわかった」

神奈川出身の東海大生(考古学専攻)
 「とにかく規模が大きい。こんな遺跡は全国でも例がない。
  見ているうちに鳥肌が立った」

一面、縄文土器が散乱している光景は、確かに鳥肌がたったが、
それを見学する市民が8000人も集まったことは、
それにもまして鳥肌が立つ出来事だった。

そのことを作家の司馬遼太郎さんに報告したところ、
感激のおハガキをいただいたことは、6月19日の
このブログで紹介したとおりである。


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# by kitanojomonjin | 2005-06-30 14:25 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)