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(津軽の地吹雪)

津軽を愛した写真家加藤惣平の意外なエピソードを
最近知った。たまたまインターネットを検索していたら
見つけた話である。

法務省に勤めていた加藤惣平は、横浜から有楽町まで
毎日通勤していた。
ある日、思い立って、その通勤途中の自分の姿を、
カメラで撮り続けた。手袋に穴を開け、そこからカメラの
ファインダーをのぞかせて、2ヶ月の間撮り続けたという。

「そこには、通勤者の決して人の流れに逆らったり、
渦の中であがいて無益な損耗をしない表情が写って
いた」という。

彼は、この写真を11枚の組写真にまとめた。
題して、「仮死の時間」。
彼は、自分の置かれている状況をひたすら見続けようとした。

このエピソードが、加藤惣平の人生というジグゾーパズルで
どういう意味を持つのかはわからない。
ただ、彼は、単なる情の人ではなく、ひたすら見続ける
眼の人であったのではないかと思う。

加藤惣平は、津軽へ来て、さらに津軽的なるものを
探し求めた。
金縛りにあいながら、あるいは吹雪の道をたどりながら、
彼は、ひたすら眼であり続けようとしたのではないか。


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# by kitanojomonjin | 2005-05-09 15:20 | 津軽 | Comments(2)

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(高山稲荷・「遥かなる津軽」より)

加藤惣平の写真の中で、わたしの最も好きな一枚は
高山稲荷の写真である。

海にむかって一本の雪道がのびて、その先に
鳥居が立っている。

海鳴りの音が聞こえ、冷たい風が舞い上がり、
寒さが足元から這い上がってくるようだ。

加藤惣平は、ここで金縛りに会ったというが、
べつに特筆すべきことではない。
津軽では、いたるところで金縛りの話を聞く。

津軽は、死者に最も近い場所といわれている。
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 (影日沢の地蔵堂・「遥かなる津軽」より)

おびただしい数の地蔵尊に、毎年新しい服が
着せられる。
そこでは、死者がまるで生きているように扱われる。

民俗学者赤坂憲雄さんは、2000年7月の縄文塾で
次のように語った。

「縄文のムラは、中心に死者たちが埋葬されて、
それと接して、生きる人たちの暮らしの場が
取り囲んでいる。
ところが、弥生のムラでは生きている人たちの村は
濠で囲まれ、死者たちは遠ざけられて外にある。」

「弥生は、死を穢れとして遠ざける文化で、
縄文は、死を遠ざけることのない文化なのではないか。」

そして、赤坂さんは、東北の文化にも、言及している。

「東北の文化というのは、死を穢れとして忌むことが
少なく、むしろ死者を身近に置きたがる文化なのでは
ないか。」

津軽では、死ねばヤマにいく、そこで死者に会える
といわれてきた。

津軽をはじめ、東北の人々の死者との近さは、縄文にまで
さかのぼるのだろうか。



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# by kitanojomonjin | 2005-05-04 15:52 | 津軽 | Comments(1)

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(出来島・「遥かなる津軽」より)

写真集「遥かなる津軽」に添えられた小文は、
穏やかな加藤惣平の人柄を感じさせる。
しかし、出来島という写真に添えられた「津軽楢山」と
いう一文だけは、一瞬彼の激しさをのぞかせている。

「姥捨て伝説は、形を変えて各地方に伝えられているが、
津軽の出来島は、まったく特異なストーリーだ。
海の洲に捨てられた老人たちは、嵐の夜に座礁した
難破船を襲い、食料を略奪して生きながらえてしまう、
という凄い話だ。
「二十四時間戦えます」からひとたびリタイヤすると、
とたんに戦意をなくしてしまう。
老いを生きるということは、難破船を襲うくらいの覚悟が
なければ生きられない。それがいま失われつつある。」

一瞬かいまみせた加藤惣平の老いの哲学。
自分に向かって投げられた言葉か、あるいは
同時代の人間に向けられたものか。

そこに、ひたむきに巡礼者の道を歩もうとする加藤惣平の
姿があるように思える。

きょう5月6日は、加藤惣平の命日である。
そして、奇しくも十三回忌にあたる。


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# by kitanojomonjin | 2005-05-04 15:21 | 津軽 | Comments(0)

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弘前公園の桜は、満開を迎えたという。
この季節になると、このころ亡くなった写真家加藤惣平の
ことを思い出す。

写真家土田ヒロミにとって、津軽はスタートラインであった
とすれば、加藤惣平にとって、津軽は終着駅であった。

横浜生まれの加藤惣平は、1983年64歳で、法務省を
定年退職した。それから10年間、亡くなるまで津軽に
通い、写真を撮り続けた。

今手元に、彼の遺作集となった写真集「遥かなる津軽」が
ある。
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いったい加藤惣平を津軽に駆り立てたものは何か。
11年前、彼の死の翌年取材したことがあるが、いまだに
本当のところはよくわからない。

本人も、津軽の友人にあてた手紙に書いている。
「結局自分でもよくわからない。自分探しの旅なのかも
しれない」という意味のことを。

加藤惣平の写した写真は、もっぱら地元の人もあまり
行かない寺や神社だった。そこに打ち捨てられた人形が
ぽつんと写っている。

写真集に、加藤惣平の一文が載っている。
「津軽の写真を撮りたくて、津軽に通い始めて既に八年になる。
この八年間、私は一日たりとも津軽を思わなかったことは
ない。津軽はもはや私の「もうひとつの故郷」だ。
その故郷にやって来ても、まだ故郷を探して、津軽を
さすらっている。」

それは、ひとつの巡礼ではなかったのか。
その言葉が、晩年の彼のひたむきな旅にふさわしいような
気がする。

そして、彼が津軽で見たものは、何だったのだろう。


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# by kitanojomonjin | 2005-05-04 14:41 | 津軽 | Comments(8)

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2001年写真家土田ヒロミは、写真集「ベルリンウォール」を
発表した。

土田ヒロミは、壁の崩壊から10年後のベルリンを訪ねた。
わずかな痕跡として残るかつての壁。
土田ヒロミは、撮影した壁を境に、WESTとEASTの文字を
表示する。
物理的な壁が消えても、そこに残された壁の記憶、冷戦の
こころの傷跡を写真に記録しようという野心的な試みであった。

写真家土田ヒロミの仕事の系譜には、「俗神」「砂を数える」の
ように、時代の中に日本人をとらえようとする試みのほかに、
「ヒロシマ三部作」の仕事があった。
遺されたモノから、ヒロシマの原爆にからめとられた人間の
記憶を立ち上らせようという試みである。
その流れの中に、「ベルリンウォール」はある。

そして、2005年の今、土田ヒロミは新たに、エルサレムの
取材に入った。ヒロシマ・ベルリンと都市に閉じ込められた
記憶に挑んできた土田ヒロミは、そのひとつの帰結点として
エルサレムを選んだという。

民族と宗教が、折り重なった重層都市エルサレムをいかに
とらえるのか。
土田ヒロミの仕事に期待したい。


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# by kitanojomonjin | 2005-05-04 13:17 | カルチャー通信 | Comments(0)

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(大磯・1981「砂を数える」より)

1976年「俗神」を世に問うた後、写真家土田ヒロミは、
1990年、写真集「砂を数える」を発表した。

はじめてこの写真集を見た時、海水浴の群集、
市民マラソンの群集、初詣の群集など、そこに写し出された
日本の群集に大きな衝撃を受けた。

それは、安部公房原作の映画「他人の顔」のなかに、
白い仮面をつけたサラリーマンの集団のシーンが
あったが、その衝撃に通底している。

ところがである。
今見直してみると、いささか印象が違う。
もっと、人物が砂粒のように小さいはずだと思って、
何度も見直してみた。
この四半世紀で、日本人がさらに様変わりしたフシがある。

例えば、「砂を数える」のなかの大磯・1981。
よく見ると、そこに写し出されている一人ひとりは、しっかり
表情を持っている。
「海岸まで来たのに、どうしてくれるんだ。早く泳ぎたい。」
という表情である。

今、2005年の日本の群集は、表情を表さないのではないか。
わたしたちは、街を歩く時、めったに感情をあらわにしない。
わたしたちは、砂粒であることになれてしまったのではないか。
それが、ひさしぶりに「砂を数える」を見た時の違和感に
つながるのかもしれない。

もうひとつ、気がついたことがある。
今、「砂を数える」の撮影を試みたら、1990年の写真に
絶対ない光景がある。
ケータイの出現である。群集をとらえると、必ずうつむいて
ケータイをチェックしている人、あちこちを向いてケータイの
写真を撮っている人がいるはずだ。
様々な方向性を持った拡散した群集が、顔を覗かせるだろう。

たぶん、わたしたちは、そんな時代にいるのだろう。
1976年の「俗神」から遠く、1990年の「砂を数える」からも
遠いところにいるのだ。

これ以上、そのことで悲観的になることはやめよう。
ケータイ時代の延長線上に、ブログが生まれたのだ。
ブログが、私たちの多様な関心を受け止める新しい磁場に
なる可能性だって、充分あるのではないだろうか。


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# by kitanojomonjin | 2005-05-02 18:42 | カルチャー通信 | Comments(1)

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(土田ヒロミ写真集「俗神」より)

写真集「俗神」が、映し出したおよそ30年前の日本にあった
猥雑さについて、増補改訂版で、小松和彦は見事にその意味を
解き明かしている。

「不思議なことに、この写真に写った猥雑な人々には、
一種の霊気が立ち上っているのだ。
「俗神」を見ておもうのは、おそらくこの30年間で、人間生活の
ありかたが根本的なところで変化してしまったのではなかろうか
という思いである。」

「今では、かつての俗神たちの姿をわたしたちの生活の中に、
わたしたちの周囲に見出すことはむずかしい。」

「わたしたちは、楽しいときに笑い、悲しいときには泣き、
苦しいときには叫び、きれいなものも汚いものも同居していた
日常生活を放棄し、誰の注視も受けないように、似通った
外皮(服装)で包み込み、目立たぬように生きる日常生活に
埋没してしまったのである。」

そして思う。
そのころまで、われわれは、縄文人の尻尾を
持っていたのではないか。


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# by kitanojomonjin | 2005-04-28 20:02 | 津軽 | Comments(0)

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弘前の桜は、きのうようやく開花宣言したという。

土田ヒロミの写真集「俗神」の増補改訂版が、
去年およそ30年ぶりに出版された。
その表紙を飾る写真「弘前・1972」
おそらく33年前のさくらまつりのころ撮影されたものである。

小男が、大きな女にしがみついて、至福の表情を
している。
この写真は、インパクトが強い。
猥雑さそのものであるが、なぜか懐かしさを誘う。

イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニの作品には、
主人公の思い出の1シーンとして、きまって豊満な女性が、
登場する。海岸で踊る女性に圧倒されて、若き日の
主人公は、いつも呆然と立っている。
この写真は、「津軽のフェリーニ」とでも名づけたい1枚である。

30年前の弘前のさくらまつりは、実に猥雑さに溢れていた。
公園の靖国神社の前の一角には、いろいろな見世物小屋が出た。
お化け屋敷。オートバイの曲乗りショー。
おまけに、ストリップ小屋まで出ていた。
いったいあれは、何だったのだろうか。

あの猥雑さについて考えてみたい。(続く)


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# by kitanojomonjin | 2005-04-28 19:30 | 津軽 | Comments(2)

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弘前からの帰りの車窓から、カワヨグリーン牧場が見えた。
東北線の三沢駅を過ぎて、すぐ左手の丘に、緑の屋根の
ロッジを中心に、建物が点在している。
ここが、わたしのもうひとつのこころのふるさとである。

最初、この丘の上に、ユースホステルが建った。
ペアレントの川口夫妻の暖かい人柄のせいで、いつしか
牧場に青春の思い出を重ねた人の輪ができた。
その人の輪を中心にして、親睦の会「牧場クラブ」が
誕生した。もう早いもので、27年になるという。
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家に戻ったら、「牧場クラブ」の機関誌が届いていた。
そこに 記されているロッジ宣言。

「人間らしく生きよう
 人間らしくつきあおう
 自然の中で語り合おう」

かって、この牧場に、この宣言をみごとに体現していた
人物がいた。
ボクのおじさんである。

いつも訪ねると、「ミィ.アミィーゴ(わが友よ)」と
スペイン語で言って、両手を大きく広げて、抱きついてくる。

おじさんには、若いころ夢があった。
一旗挙げようとメキシコへわたった。
言葉は、市場で勉強した。
市場に並ぶ品物や、値段を順に覚えていったという。
語学の勉強はこれが一番といつもおじさんは言っていた。
だが、戦争が始まり、おじさんはやむなく日本へ帰った。

牧場にいた時、おじさんは、温室で世界中の草花を
育てていた。ネパールへ農業指導にも行った。
夕食の時いつもコップの日本酒をおいしそうに飲んでいた。
ユーモアを忘れず明るいおじさんは、みんなから慕われていた。
朝早く起きてラジオ講座でスペイン語の勉強を欠かさなかった。
おじさんの夢は、生涯続いていたのだと思う。

そのおじさんが、亡くなってから7年たつ。
今も時々、おじさんのことを思い出す。
世界に通用する日本人とは、おじさんみたいな人を
言うのではないかと思う。


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# by kitanojomonjin | 2005-04-26 15:43 | カルチャー通信 | Comments(0)

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アメリカの建築家J・M・ガーディナーが、なぜ弘前に
教会を建てたのか。それは、弘前にそれを受け入れる
素地(風土)があったのではないだろうか。

明治のはじめから、弘前の洋館は、堀江佐吉という
地元の大工の棟梁とその弟子たちによって、次々に
建てられた。

冒頭の写真、青森銀行記念館も、堀江佐吉の手になる。
弘前の洋館は、もっぱら木造のものであった。
次の写真を見ていただきたい。
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日本キリスト教団弘前教会。堀江佐吉の四男、
斉藤伊三郎の手による。

ヨーロッパの石造りの教会が、そっくり木で作られている。
専門家の話では、石造りの建築のアクセサリーも、
そのまま木で作られているという。
まさに、見よう見まねの西洋建築だった。

これらの建築は、「偽西洋」といわれるらしいが、
初期の日本の大工さん達の意気込みが、ひしひしと
伝わってくるようだ。

堀江佐吉は、はじめ雑誌の挿絵などをお手本にしたと
いわれている。
そのうち、函館港が開港し、さっそく佐吉は函館を訪ねた。
そこで見た外国人の風俗や建物が大いに参考になったという。
堀江佐吉が、函館を訪れた時のスケッチが残っているという。
堀江の感動が溢れているに違いない。
ぜひ見てみたい。(ご存知の方は、ぜひ教えていただきたい。)

この時代、実は、日本中の大工さん達が、それまでの
仕事を失い、新しい仕事を求めて、大移動が起きた。
いわば、大工さん達のルネサンスが起きた。
東北各地や関東および伊豆あたりに、ユニークな建物が
次々に建ったという。

弘前の洋館のフロンティアを担ったのは、堀江佐吉だった。
文明開化の時代に、好奇心いっぱいで、見よう見まねで
西洋建築を次々に建てた佐吉。

その流れを汲む洋館が、立ち並んでいた街・弘前だからこそ
ガーディナーは、すすんで教会の設計を引き受けたのでは
ないだろうか。
そんな気がしてならない。


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# by kitanojomonjin | 2005-04-25 12:05 | 津軽 | Comments(2)