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(エゾニワトコ・写真提供 NPO法人三内丸山縄文発信の会)

東京大学の辻誠一郎さんは、以前から、エゾニワトコについて
いたくご執心だった。
縄文人は、これでお酒を作っていたのではないかという。
三内丸山遺跡からまとまって出土している。

2004年11月、ベルリンで開かれた縄文シンポジウムで、
辻先生は、貴重な体験をされたという。

参加者から、ヨーロッパでもニワトコの仲間から、
サンブーカというお酒を造っているという報告があった。

辻先生は、意を強くして、縄文塾でこの話を紹介された。

お酒は、米の登場した弥生時代からというのが、長い間の
定説であった。

本当にそうなのだろうか。
アルコールのない人生なんて。
のんべいは、素朴な疑問を抱く。

そこで、辻先生は、その疑問に真っ向から挑戦されたという
訳である。

同じニワトコの仲間でも、北日本・北海道・サハリンに
分布しているエゾニワトコが、酒造りに適していることまで
実証されている。

ヨーロッパの実例も加わって、縄文のお酒の可能性は、
着々と足場をかためつつある。

その暁には、はれてエゾニワトコのお酒で乾杯したいものだ。


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# by kitanojomonjin | 2005-08-12 16:02 | 縄文植物を育てよう | Comments(0)

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津軽の家々の庭では、もうキキョウが花をつけていた。
秋の七草のひとつキキョウは、日本古来のものかと
思ったらそうでなかった。

東京大学の辻誠一郎先生は、キキョウを縄文植物に
あげている。

キキョウは、日本を始めアジア東部に分布しているという。
中国では、薬草として栽培され、朝鮮半島では、
「トラジ」と呼ばれ、薬用あるいは、漬物や菓子など
食用にされているという。

日本には、朝鮮半島から渡来したものといわれる。
日本古来の花と思われたキキョウが、実は、朝鮮半島と
中国につながる植物だった。

これからは、縄文時代の日本列島と東アジアとの
つながりを物語る植物として、キキョウを見直す
必要がありそうだ。


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# by kitanojomonjin | 2005-08-11 15:23 | 縄文植物を育てよう | Comments(0)

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今週はじめ、津軽の西海岸を旅した。
日本海に面した海岸線を五能線の線路が延びている。
その一帯に、ハマナスが赤い実をつけていた。

ハマナスは、今年2月の縄文塾で、東京大学教授の
辻誠一郎さんが、縄文の植物として、第一にあげられ、
それ以来気になっていた。
ようやくご対面できたという感じである。

野生のハマナスは、その花の香りが強く、
香料にも利用されている。
根は染料に使われ、赤い実は、ビタミンCがたっぷり
含まれているという。

辻先生のお話では、東アジアから入ってきたハマナスは、
その実用性(食用・薬用)と、美しい花・実から、
縄文人にとって、女神のようなシンボル的存在だったのでは
ないかという。

津軽西海岸にひろがる日本海の海原。
ハマナスは、その海をさらに北上し、北海道の海岸線から、
サハリン、オホーツク沿岸に広く分布している。
最近、知ったことだが、北欧にも自生し、英名は、
Japanese Rose というらしい。

オホーツク沿岸から、シベリアそして北欧にも連なる
北方に分布するハマナスは、たしかに縄文の植物として
見直されるべき魅力に溢れているようだ。


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# by kitanojomonjin | 2005-08-10 12:14 | 縄文植物を育てよう | Comments(1)

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(田園風景の広がる岡山県総社市)

岡山県立大学で学生の諸君にドキュメンタリー「もの喰う人々」が
好評だったことは、前回触れた。

実は、「もの喰うひとびと」には、後日談がある。
この番組を担当したプロデューサーの影山憲和君が、
このあとしばらくして病気で亡くなった。
脳腫瘍だったという。

チュルヌブイリとの因果関係は分からないが、
体当たりのロシア取材が命を縮めたのではといわれている。

実に有能で、魅力的な男を失った。

体当たりで対象にぶつかっていく影山君の姿勢が、
今も画面に、鬼気迫る緊張感を与え、
見る人を感動させるのだと思う。

今年でもう、彼が世を去ってから、たしか7回忌を迎える。

いつも、自問する。
影山君だったら、この時代どんな番組を作るだろうかと。
それほど、大きな存在だった。


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# by kitanojomonjin | 2005-08-05 13:27 | 旅の街角から | Comments(0)

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(岡山県立大学)

今週、岡山に行ってきた。
岡山県立大学の学生さんたちに、映像メディアの話を
するためである。

わたしが、これまで印象に残った番組を何本か見てもらった。
なかでも、強い印象を与えたのが、「もの喰う人々」だった。
(1997.2.27テレビ朝日放送)
ご存知、辺見庸のルポのテレビ版である。

その中でも、チェルヌブイリの周辺30キロ圏の立ち入り禁止
区域の取材の部分が、圧巻である。

放射能に汚染されたこの立ち入り禁止区域に、禁を破って
住んでいる人たちがいる。
サマショールと呼ばれる人たちだ。
彼らは、もともとこの地がふるさとだった。
突然立ち退きを命ぜられても、高齢の彼らにとって、
安住の地はない。

彼らは、密かに舞い戻り、畑を耕し、生活を始めた。

リポーターの石橋蓮司は、気のいいサマショールの一家で
ご馳走攻めに会う。
地元で収穫されたものばかり。
確実に、放射能に汚染されている。

石橋は、戸惑い、ぼやきながら、ウオッカをたらふく飲み、
ご馳走を平らげる。

決して、勧められる手法ではないが、身体を張って、
サマショールの人々の苦渋を表現したことは、間違いない。

学生諸君も、素直にこれを受け止め、感動してくれた。
うれしかった。


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# by kitanojomonjin | 2005-08-05 12:36 | 旅の街角から | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

弘前の亀甲門の前に、石場家がある。
そこのおばあさんは、かつて、とても魅力的な
津軽弁を話す事で知られていた。

津軽弁にも、古くは男ことばと女ことばがあった。
石場のおばあさんは、その古きよき女ことばの
風韻を漂わせていた。

詳しく説明できないが、たとえば、語尾に
「そんでねし」と「ねし」が付く。
それが、フランス語の「ネスパ」を思わせるほど、
魅力的な響きを持つ。

1994年春、桜の季節を前にして、石場家を訪ねた時、
問わず語りに石場のおばあさんが話してくれたはなしは、
今でも忘れない。

「毎年今ごろになると、この家に嫁に来てよかったなと
つくづく思う。
裏の梅が咲いたと思ったら、表の(弘前公園)の桜が
咲く。」

「でも桜は、今咲くか今咲くかと待っているときが
一番楽しい時。
ちょうど、娘の成長を見ているようなもので。」

以上のはなしが、津軽弁の古き女ことばで話された。
たとえば、最後のくだりは、
「おなごわらしが、おがっていぐのをみでるんたふうだきゃ
ねし」といった具合である。

これは、とてもいろっぽい風情でしたと、手紙で報告したら
司馬さんは、とても興味を示してくれた。

市井の魅力的な人にも、作家司馬遼太郎さんは常に
最大の関心を抱いていた。
作家であり、その前に新聞記者であった司馬さんは、
人間が好きだった。

特に、石場のおばあちゃんのように、野にいながら
独特の風格をもっている人をことのほかよろこんだ。

街道をゆく・北のまほろばでも、石場のおばあちゃんに
会い、石坂洋次郎の話を聞いている。

「広い土間に入ると、幸い、家刀自が在宅しておられた。
家刀自は細面の美人で、板敷のはしに端座された。
茶目っぽい微笑が、油断ならなかった。」

津軽に代々続く商家のおかみさんとして切り盛りしてきた
石場のおばあさんの姿をよく捉えている。

その後、まもなく心臓の発作で亡くなられた。
痛みがあったはずなのに、その顔は眠るように
穏やかだったという。

美しい津軽弁を話す人が、またひとりいなくなった。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-29 19:38 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

2002年9月に開かれた「お月見縄文祭」の3日間は
感動溢れるものだった。

初日、三内丸山遺跡では、1000人の人たちが集まり、
フィナーレは、ねぶた囃しのリズムで盛り上がった。

2日目は、秋田の大湯環状列石で、地元の太鼓の
リズムで盛り上がった。

3日目は、岩手の御所野遺跡で、御所野縄文合唱団の
歌声や仮面おどりが彩をそえた。

それぞれの縄文遺跡のたたずまいが異なるように、
遺跡に吹く風が違うように、まつりは、個性的な
表情をしていた。

この3日間のまつりを支えてくれたのは、特別編成された
縄文ミュージシャンの面々だった。

初日2日目と月が顔を出したのに、3日目は
あいにくの雨だった。
ところが、祭りが終わって、あとかたづけを
していたとき、まん丸な月が顔を出した。

そのとき、思わずみんなの口から出たのは、
「月が出た 月が出た」という炭坑節のフレーズだった。

そのあと、宿に入って、煌々とさしこむ月の光を浴びながら
縄文ミュージシャンたちと酒をくみかわした。

津軽三味線の山上進さん。
シンガーソングライターの一潮さん。
ヴィオラの三戸誠さんほかの面々だった。

縄文の人たちは、どんな思いで月を見ていたのだろう。
太古の人々に想いをはせながら、密度の濃い時間が
流れていった。

(今年は、三内丸山で8月20日(土)、お月見縄文祭がある。
 問い合わせは、三内丸山縄文発信の会事務局まで
        tel.017-773-3477 )


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# by kitanojomonjin | 2005-07-29 14:31 | 縄文 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

フォークグループ「ブリッジフラワーズ」の歌を
初めて聞いたのは、2002年のお月見縄文祭だった。
「ブルー・ザ・ストーン」という曲だった。

「なぜかここに来ると 心が落ち着く景色
君とここにいると 笑顔があふれるんだ」
という歌いだしの透明感のある響きが、
とても印象的だった。

実は、「ブルー・ザ・ストーン」というのは、秋田の
大湯環状列石(ストーンサークル)のイメージソングだった。

この歌を作り歌っているのは、地元の木工デザイナーの
橋野浩行さんと旅館の若旦那の花海義人さんである。
花海さんは、遺跡の調査にも参加している。
(「ブリッジフラワーズ」というグループ名は、橋野さんの
橋と、花海さんの花を取ってつけたという。)

なるほどと思った。
遺跡を愛する気持ちと、ふるさとを愛する気持ちが
ひしひしと伝わってくる。

歌詞の後半は、次のように続く。

「僕らが生まれてきた
ふるさとの大地と空に
胸を張り風に立つ 
夕日に染まる石たち

幾千もの時代を刻み
空の流れ 朝の光
いつまでも続いてゆく

Blue The stone Shining the heart」

こころに響く歌である。



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# by kitanojomonjin | 2005-07-28 13:47 | 縄文 | Comments(0)

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(台風一過・ブロギニストの散歩道から)

青森県の森田村に、石神遺跡という縄文の遺跡がある。
岩木山を間近に望むこの遺跡から大量の円筒土器が
出土している。

この円筒土器に皮を張って、縄文太鼓と名付けて演奏して
いる人がいると聞いて会いに行ったことがある。
それが、宮崎龍美さんとの初めての出会いだった。

その宮崎さんが、ひょっこり東京の縄文塾に姿を
あらわしたのは、4年前のことだった。
そのとき、イタドリの茎で作った笛を持参していた。

その笛の響きは、不思議な魅力を持っていた。

今年も、8月20日(土)に、三内丸山遺跡で
お月見縄文祭が開かれる。
そこのワークショップで、今年も宮崎龍美さんが
縄文の音楽について、演奏とお話をしてくれる
ことになっている。
今年で、三回目になるが、毎年親子連れに大人気である。

宮崎さんの新たな縄文の音楽の世界に出会うのが、
今から楽しみである。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-27 19:38 | 縄文 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

司馬さんが、津軽を訪ねた時、吉田松陰に想いをはせた
もうひとつの場所が、弘前市の養生幼稚園だった。

ここは、梅軒伊東広之進の旧宅である。
梅軒は、憂国家として藩外まできこえた存在だった。
松陰は、ここを訪れ、北の海防について質問したという。

司馬さんを養生幼稚園に案内するというと、
「古い積木が面白いですよ」と
弘前の藤田晴央さんが教えてくれた。

司馬さんの取材方法は、事前に徹底的に資料を読み込む。
現地へ行った時は、そのことを確認することが多いという。
とすれば、司馬さんを喜ばせるには、資料に記されていない
エピソードあるいは、モノを探し出すしかない。

この積み木には、司馬さんも喜んでくれた。

「なるほど、室内に入ると、大きな積木からして古びている
ことに驚かされた。どの木も明治以来、園児と遊び続けた
ために、四角の角(かど)が丸くなっているのである。」

この幼稚園のつながりの古い座敷が、吉田松陰が
訪れた部屋であった。
沈黙が続いた。
司馬さんは、しばし松陰に想いをはせているようだった。

司馬さんの松陰に寄せる気持ちが、ひしひしと伝わる
一文がある。

「吉田松陰は、通称寅次郎、二十九歳で世をおえる。
小柄で、清雅な容貌をもっていた。
全身に倫理感情を湛え、一挙手一投足にも論理があった。
その思想は明晰で、一点の暗さもなく、澄明な気分で
世を送った。
それだけに、はかなげでもあった。」
(街道をゆく・北のまほろばより)

最高の賛辞である。
その部屋に、松陰の気配が色濃く立ち込めているかの
ようだった。


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# by kitanojomonjin | 2005-07-25 10:24 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)