<   2005年 07月 ( 16 )   > この月の画像一覧

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(ブロギニストの散歩道から)

弘前の亀甲門の前に、石場家がある。
そこのおばあさんは、かつて、とても魅力的な
津軽弁を話す事で知られていた。

津軽弁にも、古くは男ことばと女ことばがあった。
石場のおばあさんは、その古きよき女ことばの
風韻を漂わせていた。

詳しく説明できないが、たとえば、語尾に
「そんでねし」と「ねし」が付く。
それが、フランス語の「ネスパ」を思わせるほど、
魅力的な響きを持つ。

1994年春、桜の季節を前にして、石場家を訪ねた時、
問わず語りに石場のおばあさんが話してくれたはなしは、
今でも忘れない。

「毎年今ごろになると、この家に嫁に来てよかったなと
つくづく思う。
裏の梅が咲いたと思ったら、表の(弘前公園)の桜が
咲く。」

「でも桜は、今咲くか今咲くかと待っているときが
一番楽しい時。
ちょうど、娘の成長を見ているようなもので。」

以上のはなしが、津軽弁の古き女ことばで話された。
たとえば、最後のくだりは、
「おなごわらしが、おがっていぐのをみでるんたふうだきゃ
ねし」といった具合である。

これは、とてもいろっぽい風情でしたと、手紙で報告したら
司馬さんは、とても興味を示してくれた。

市井の魅力的な人にも、作家司馬遼太郎さんは常に
最大の関心を抱いていた。
作家であり、その前に新聞記者であった司馬さんは、
人間が好きだった。

特に、石場のおばあちゃんのように、野にいながら
独特の風格をもっている人をことのほかよろこんだ。

街道をゆく・北のまほろばでも、石場のおばあちゃんに
会い、石坂洋次郎の話を聞いている。

「広い土間に入ると、幸い、家刀自が在宅しておられた。
家刀自は細面の美人で、板敷のはしに端座された。
茶目っぽい微笑が、油断ならなかった。」

津軽に代々続く商家のおかみさんとして切り盛りしてきた
石場のおばあさんの姿をよく捉えている。

その後、まもなく心臓の発作で亡くなられた。
痛みがあったはずなのに、その顔は眠るように
穏やかだったという。

美しい津軽弁を話す人が、またひとりいなくなった。


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by kitanojomonjin | 2005-07-29 19:38 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

2002年9月に開かれた「お月見縄文祭」の3日間は
感動溢れるものだった。

初日、三内丸山遺跡では、1000人の人たちが集まり、
フィナーレは、ねぶた囃しのリズムで盛り上がった。

2日目は、秋田の大湯環状列石で、地元の太鼓の
リズムで盛り上がった。

3日目は、岩手の御所野遺跡で、御所野縄文合唱団の
歌声や仮面おどりが彩をそえた。

それぞれの縄文遺跡のたたずまいが異なるように、
遺跡に吹く風が違うように、まつりは、個性的な
表情をしていた。

この3日間のまつりを支えてくれたのは、特別編成された
縄文ミュージシャンの面々だった。

初日2日目と月が顔を出したのに、3日目は
あいにくの雨だった。
ところが、祭りが終わって、あとかたづけを
していたとき、まん丸な月が顔を出した。

そのとき、思わずみんなの口から出たのは、
「月が出た 月が出た」という炭坑節のフレーズだった。

そのあと、宿に入って、煌々とさしこむ月の光を浴びながら
縄文ミュージシャンたちと酒をくみかわした。

津軽三味線の山上進さん。
シンガーソングライターの一潮さん。
ヴィオラの三戸誠さんほかの面々だった。

縄文の人たちは、どんな思いで月を見ていたのだろう。
太古の人々に想いをはせながら、密度の濃い時間が
流れていった。

(今年は、三内丸山で8月20日(土)、お月見縄文祭がある。
 問い合わせは、三内丸山縄文発信の会事務局まで
        tel.017-773-3477 )


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by kitanojomonjin | 2005-07-29 14:31 | 縄文 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

フォークグループ「ブリッジフラワーズ」の歌を
初めて聞いたのは、2002年のお月見縄文祭だった。
「ブルー・ザ・ストーン」という曲だった。

「なぜかここに来ると 心が落ち着く景色
君とここにいると 笑顔があふれるんだ」
という歌いだしの透明感のある響きが、
とても印象的だった。

実は、「ブルー・ザ・ストーン」というのは、秋田の
大湯環状列石(ストーンサークル)のイメージソングだった。

この歌を作り歌っているのは、地元の木工デザイナーの
橋野浩行さんと旅館の若旦那の花海義人さんである。
花海さんは、遺跡の調査にも参加している。
(「ブリッジフラワーズ」というグループ名は、橋野さんの
橋と、花海さんの花を取ってつけたという。)

なるほどと思った。
遺跡を愛する気持ちと、ふるさとを愛する気持ちが
ひしひしと伝わってくる。

歌詞の後半は、次のように続く。

「僕らが生まれてきた
ふるさとの大地と空に
胸を張り風に立つ 
夕日に染まる石たち

幾千もの時代を刻み
空の流れ 朝の光
いつまでも続いてゆく

Blue The stone Shining the heart」

こころに響く歌である。



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by kitanojomonjin | 2005-07-28 13:47 | 縄文 | Comments(0)

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(台風一過・ブロギニストの散歩道から)

青森県の森田村に、石神遺跡という縄文の遺跡がある。
岩木山を間近に望むこの遺跡から大量の円筒土器が
出土している。

この円筒土器に皮を張って、縄文太鼓と名付けて演奏して
いる人がいると聞いて会いに行ったことがある。
それが、宮崎龍美さんとの初めての出会いだった。

その宮崎さんが、ひょっこり東京の縄文塾に姿を
あらわしたのは、4年前のことだった。
そのとき、イタドリの茎で作った笛を持参していた。

その笛の響きは、不思議な魅力を持っていた。

今年も、8月20日(土)に、三内丸山遺跡で
お月見縄文祭が開かれる。
そこのワークショップで、今年も宮崎龍美さんが
縄文の音楽について、演奏とお話をしてくれる
ことになっている。
今年で、三回目になるが、毎年親子連れに大人気である。

宮崎さんの新たな縄文の音楽の世界に出会うのが、
今から楽しみである。


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by kitanojomonjin | 2005-07-27 19:38 | 縄文 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

司馬さんが、津軽を訪ねた時、吉田松陰に想いをはせた
もうひとつの場所が、弘前市の養生幼稚園だった。

ここは、梅軒伊東広之進の旧宅である。
梅軒は、憂国家として藩外まできこえた存在だった。
松陰は、ここを訪れ、北の海防について質問したという。

司馬さんを養生幼稚園に案内するというと、
「古い積木が面白いですよ」と
弘前の藤田晴央さんが教えてくれた。

司馬さんの取材方法は、事前に徹底的に資料を読み込む。
現地へ行った時は、そのことを確認することが多いという。
とすれば、司馬さんを喜ばせるには、資料に記されていない
エピソードあるいは、モノを探し出すしかない。

この積み木には、司馬さんも喜んでくれた。

「なるほど、室内に入ると、大きな積木からして古びている
ことに驚かされた。どの木も明治以来、園児と遊び続けた
ために、四角の角(かど)が丸くなっているのである。」

この幼稚園のつながりの古い座敷が、吉田松陰が
訪れた部屋であった。
沈黙が続いた。
司馬さんは、しばし松陰に想いをはせているようだった。

司馬さんの松陰に寄せる気持ちが、ひしひしと伝わる
一文がある。

「吉田松陰は、通称寅次郎、二十九歳で世をおえる。
小柄で、清雅な容貌をもっていた。
全身に倫理感情を湛え、一挙手一投足にも論理があった。
その思想は明晰で、一点の暗さもなく、澄明な気分で
世を送った。
それだけに、はかなげでもあった。」
(街道をゆく・北のまほろばより)

最高の賛辞である。
その部屋に、松陰の気配が色濃く立ち込めているかの
ようだった。


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by kitanojomonjin | 2005-07-25 10:24 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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( ムクゲの花・ ブロギニストの散歩道から)

1994年司馬遼太郎さんの津軽路の旅は、3人の
人物を意識していたように思う。

まず、青森県金木町出身の作家・太宰治。
(このブログでも触れた。6月12日付)
次に、弘前出身の明治の言論人・陸羯南。
(これについても、このブログで既に触れた。7月19日付)

そしてもう一人、幕末の志士、吉田松陰である。
松陰は、1852年(嘉永5年)、友人宮部鼎蔵とともに、
東北旅行をし、青森の津軽半島を訪れている。
ペリー来航の前年に当たる。

吉田松陰このとき22歳。
国際的に緊迫した北の海をその眼で確かめるため、
冬の津軽半島の道なき道をたどったという。

津軽半島へは、1994年の夏マイクロバスで行った。
行きは、海外線だったが、帰りは曲がりくねった山中の
道を通った。

その時のことが、街道をゆく・北のまほろばに出てくる。
「私は、谷ごとに谷底を見た。
松陰のことをおもった。」

松陰の日記によれば、雪の深さ2・3尺の山道を
22歳の松陰は、ひたすら歩んでいたという。

「いまも松陰が、渉っていないかと、その文章を思いつつ、
谷底を見た。
松陰は小柄で痩せた青年だった。
武芸よりも書を読む人だった。
その松陰にして、水をわたり、あるいは積雪にまみれ、
旅衣の乾くいとまもなく、この道のない地形を
踏破したのである。」

あの時、マイクロバスの最前列でじっと、外の風景を
見つめていた司馬さんは、青年吉田松陰に思いを
はせていたのだ。
ひょっとしたら、一瞬松陰の姿を垣間見たのかもしれない。

松陰は、この旅から7年後、安政の大獄のとき刑死する。
常に、実証精神で現場を踏もうとした松陰の想いが、
いまも新鮮に感じられる。


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by kitanojomonjin | 2005-07-24 16:47 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(1)

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縄文ファイルゼロ号を出したのは、ちょうど10年前の
1995年の8月のことだった。
三内丸山縄文発信の会の立ち上げのメッセージを載せて
広く会員を募った。

そこには、新しい市民の会の意気込みが込められている。

「三内丸山を契機に今、専門家から市民に至るまで
起きつつある新しい動きーそれを新しい縄文学ととらえ、
1995年を縄文元年と名づける事もできるでしょう。」

「この縄文元年にあたって、三内丸山遺跡の縄文の
情報を世界に発信する三内丸山縄文発信の会の設立を
ここに提唱します。」

かくして、現在地元青森をはじめ、東京・大阪・仙台に
支部ができて、市民300人あまりの方が、会員になっている。

NPO法人の例にもれず、会員からの会費を財源とした運営は
なかなか厳しいが、この10年活動を続けてこれたのは、
多くのみなさんの応援のおかげだと思う。
感謝。

評論家の森本哲郎さんのアドバイスで、単なる同好会に
しないために、将来の縄文研究センターの創生を
働きかける事を目標に掲げた。

ゼロ号のメッセージは、次の文章で終わっている。
「地下に真実、地上にロマン。
発掘を担当する人たちの間で語り継がれている言葉
だそうです。
わたしたちの会は縄文発信を通して、21世紀に向けて、
真実とロマンの橋渡しをしたいと考えています。
ともに第一歩を踏み出すべく、ご賛同のほどよろしく
お願いいたします。」

あなたも一緒に会員になって、世界に縄文発信しませんか。

詳しくは、三内丸山縄文発信の会事務局まで
       tel.017-773-3477


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by kitanojomonjin | 2005-07-22 19:52 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)

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縄文ファイルの最新号が届いた。
これは、わたしたちのNPO法人三内丸山縄文発信の会の
機関紙で、毎月発行され、現在117号を数える。

創刊されてから、早10年になる。
よくここまで来たものだと思う。

中味は、三内丸山遺跡の最新情報をはじめ、
縄文塾・シンポジウムの紹介そして、広く縄文の情報が
掲載されている。

なんといってもその特徴は、必ず英文の要約をつけたことだ。
世界に縄文を発信しようという意気込みではじめた。
翻訳してくれる人を探すのにおおわらわだった。

現在は、通信社の元海外特派員のMさんに、お願いしている。
専門用語が多くて、大変なご苦労である。
最初は、縄文は、どうやって訳したらいいのかも悩んだ。
結局、JOMONで行くことにした。

10年も続けていると、うれしい話もある。
外国の研究者の論文に、引用された時は、うれしかった。

さらに、三内丸山を訪ねたニューヨーク・タイムスの記者が、
売店においてあった縄文ファイルに興味を示して、
執筆者に連絡してきたことがある。
英文が、ネイテブの人に近く共感をもたれたという。
ボランテアの翻訳者に感謝すること大である。

さて、その最新号には、今年のお月見縄文祭の案内が出ている。
今年は、8月20日に、三内丸山遺跡で、お月見コンサートが
開かれ、それに先立って、シンポジウムとワークショップが
開かれる。
詳しくは、三内丸山縄文発信の会事務局まで、
お問い合わせください。
tel.017-773-3477


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by kitanojomonjin | 2005-07-22 19:43 | 縄文 | Comments(0)

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(弘前の街から望む岩木山)

1994年、作家司馬遼太郎さんが、街道をゆくの
取材で、津軽を訪れた時、たまたま津軽を案内する
機会があった。

その年の1月、雪の青森のグランドホテルで、司馬さんと
お目にかかったとき、最初に出たのが、陸羯南の漢詩の
話だった。

「名山名士を出だす
此語久しく相伝う
試みに問う巌城の下
誰人か天下の賢」

弘前高校時代、いつもS先生がこの詩を披露し、
ぐるりと見渡して、
「名山名士を出だすというが、いまだに名士が出ていない。
諸君奮起せよ」
と発破をかけられましたと報告したら、司馬さんは
そうですかとうれしそうに聞いておられた。

明治の言論人・陸羯南(くが・かつなん)が、こんな
形でふるさと弘前で語り継がれていることを
うれしく思われたのだろう。

司馬さんほど、明治の言論人陸羯南を高く評価した
方はいない。
津軽路の旅で、太宰治の次に登場したのが、陸羯南の
話だった。

新聞「日本」の主宰者だった陸羯南は、正岡子規を
終生面倒みた人物としても知られている。
子規は、陸羯南を徳の人とたたえ、尊敬していた。
病気で激痛に悩まされた子規を陸羯南は、つきそい
励ました。
徳のある人に、手を握ってもらうと痛みも和らぐと、
子規は、手紙に記している。

司馬さんは、ここまで話すと、決まって身を乗り出して、
「このような徳の人・陸羯南の魅力をしっかり描いたものは
まだない。
それは、あなたたちの仕事ではないですか」
といわれた。

とにかく、陸羯南の周りには、彼を信奉する人々の輪が、
出来ていたという。

明治の言論人陸羯南の魅力を改めて、浮き彫りにすること
それが、司馬さんから託された宿題である。

まだまだ、その実現には時間がかかりそうであるが。



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by kitanojomonjin | 2005-07-19 14:10 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(岩木山)

1994年、作家司馬遼太郎さんは、街道をゆくの取材で
津軽をはじめ、青森県を訪ねられた。
たまたま青森にいたわたしは、司馬さんの津軽路の旅を
案内する機会に恵まれた。

あれから10年余り。
旅の思い出をすこしずつたどってみたい。

津軽は、わたしのふるさとである。
津軽を案内するときの悩みはたったひとつ。
天気が晴れて岩木山が見えるかどうか。

岩木山が見えさえすれば、津軽路の旅の案内は、
何の問題もない。
岩木山のみえる最適スポットにご案内すれば、
あとはそそり立つ岩木山が様々な表情を見せ、
語りかけてくれるのだ。

ところが、司馬さんが津軽に見えたのは、
一年のうちで、岩木山の見える確立の最も低い
冬1月のことだった。

結論からいうと、その日奇跡的に、晴れ間から
岩木山は顔を覗かせてくれた。
しかも、わたしたちが、小さい時から岩木山を
望むなら第一の場所と教えられてきた場所で。

それは、弘前城本丸から望む岩木山である。

司馬さんは、岩木山の印象を「街道をゆく・北のまほろば」の
中で次のように記している。

「私ものぼりつめてから、天守閣を見るよりも、
台上の西北が広かつに展開していて、吸い寄せられるように
天を見ざるを得なかった。
その天に、白い岩木山が、気高さのきわみのように
しずかに裾をひいていた。
息をのむ思いがした。」

案内役としては、ほんとうに、岩木山に感謝という気持ちだった。

そしてこの時、司馬さんは、弘前城本丸の主人公は
岩木山であることを看破された。



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by kitanojomonjin | 2005-07-09 16:20 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)