<   2005年 06月 ( 19 )   > この月の画像一覧

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(三内丸山遺跡カタログより)

1994年青森市の郊外に姿をあらわした三内丸山遺跡は、
野球場予定地がそっくり、縄文の大集落のほぼ全容を
示すものだった。

これを天地人の「地の利」とすれば、「人の利」にあたるのが
現地説明会への圧倒的な参加者の数である。

最高気温33度の炎天下、8月6日・7日の2日間にあわせて
8000人の人が、現地を訪れた。

その時の人々の肉声を当時朝日新聞社青森支局にいた
阿部俊幸記者が、縄文ファイルに次のように紹介している。

青森市の85歳の男性
 「柱はよく残っていた。驚いた。そばに住んでいるので、
  足を運ばないと申し訳ないと思った」

青森商業高校の16歳の男性
 「自分が住んでいる所に、こんな大きな遺跡があったことが
  うれしい。すごい、というのがわかった」

神奈川出身の東海大生(考古学専攻)
 「とにかく規模が大きい。こんな遺跡は全国でも例がない。
  見ているうちに鳥肌が立った」

一面、縄文土器が散乱している光景は、確かに鳥肌がたったが、
それを見学する市民が8000人も集まったことは、
それにもまして鳥肌が立つ出来事だった。

そのことを作家の司馬遼太郎さんに報告したところ、
感激のおハガキをいただいたことは、6月19日の
このブログで紹介したとおりである。


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by kitanojomonjin | 2005-06-30 14:25 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)

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(写真提供 NPO法人三内丸山縄文発信の会)

三内丸山遺跡が、デビューするには、いくつかの幸運が
重なっていた。
もう一度、三内丸山の航空写真を見ていただきたい。
野球場の建築が大分進んでいた。
このエリアが、奇しくも、三内丸山遺跡の中心部と
ほぼ重なっていたのである。

まず、上部の南北に走るブルーシートの部分が、
北の谷といわれ、縄文時代のゴミ捨て場だという。
うるしの木製品や魚の骨など、ふつうは残らない
有機物が奇跡的に残されていた。
この谷を中心に、向かって左の一塁側スタンドには、
巨大木柱や大型住居跡が出てきた。
特別の聖なるエリアといわれている。
向かって右の三塁側スタンドには、子供の墓や
大人の墓のエリアが広がっている。
南には、小規模な竪穴住居がひろがる。

全体として、ここには、いろいろなエリアを持つ計画的な
大集落が、野球場建設予定地にピッタリ重なって、
姿をあらわしたのである。

なんという偶然だろうか。
遺跡としては、なんという強烈なデビューではないか。
これが、第一の幸運だった。
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by kitanojomonjin | 2005-06-29 19:34 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)

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(写真提供 NPO法人三内丸山縄文発信の会)

そろそろ縄文の市民運動のグループ・NPO法人
三内丸山縄文発信の会がどうして生まれたかを
お話しするときが来たようだ。

すべては、1994年の7月に見た衝撃的な光景から
始まった。

冒頭の写真は、そのときの航空写真である。
青森市郊外に、野球場建設が進められていた。
一塁側と三塁側のコンクリート打ちがすでに終わっている。

その時、およそ5ヘクタールの敷地一面に、縄文土器の
破片が散乱していた。

これは、縄文スタジアムとでも名づけるしかない
不思議な空間だった。

当時、現地を訪ねた考古学者の森浩一先生は、
「近畿地方でこれまで出土した縄文土器をすべて
あわせても、ここの1ブロックにもかなわない」
といわれた。

それは、通常のレベルを超えた発掘ぶりであった。

その光景は、そのまま、この野球場いっぱいの土器に
埋め尽くされた遺跡と、一個の野球場の、どちらを
選択するのかを見るものにつきつけずにはおかなかった。

その後の三内丸山をめぐる市民運動は、すべて
あの光景が出発点だったと思う。
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by kitanojomonjin | 2005-06-28 18:50 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)

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作家司馬遼太郎さんからいただいた1枚のハガキ。
それが、わたしたちのNPO三内丸山縄文発信の会の
最初の仕事「三内丸山カタログ」の巻頭を飾る
ことばになった。

「三内丸山の大いなる遺跡に立つと、たれもが
やわらかい笑顔になる。」

で、始まるその文章は、極めて印象的なことばで、
締めくくられていた。

「遺跡をながめていると、この秩序のなかで、文字は
持たないながらも、文学や思想が、十分に熟していた
のではないかとも思えてくる。」

最初、このくだりを読んだときは、とても唐突な感じが
した。
しかし、10年経ってこのことばをかみ締める時、それは
誇張でもなんでもないことを実感できる。

最後は、次の1文で締めくくられていた。

「遺跡は、われわれに湧き出づるものを
与えてくれるのである。」

このことばを励みに、わたしたちは、縄文の市民運動を
本格的に始めていくことになった。


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by kitanojomonjin | 2005-06-26 09:57 | 司馬遼太郎さん | Comments(0)

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1995年夏、作家司馬遼太郎さんから、一枚の
ハガキをいただいた。

三内丸山遺跡のカタログ「森と海の都・三内丸山」の
巻頭を飾ることばが、したためられていた。

それは、私たちが、NPO法人・三内丸山縄文発信の会を
立ち上げた時の最初の仕事であった。

そのハガキをいただいて、
私たちは、思わず小躍りするほどうれしかった。

司馬さんほど、三内丸山遺跡の出現を喜ばれた方は
いない。
その喜びが、無理なお願いを快諾していただく引き金に
なったと思う。

それは、次のことばから始まる。

「三内丸山の大いなる遺跡に立つと、たれもがやわらかい
笑顔になる。」

「この遺跡は私どもの先祖像をまったく変えた。」

「近世の集落と基本的には変わらない定住の文化が
そこにあり、精神生活の基軸らしいものもあり、
死者を葬る秩序もあり、さらには飢えに備えての
食糧の貯蔵もおこなわれていた。」

「その背景には、縄文のころの津軽の立地条件のよさが
あったに違いない。
ひょっとすると、そのころの津軽は世界一住みよかったとも
いえそうなのである。」

司馬さんのメッセージはさらに続く。
                    (つづく)


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by kitanojomonjin | 2005-06-24 18:18 | 司馬遼太郎さん | Comments(3)

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(クチナシの花・渋谷ブロギニスト通り)

1997年夏、鹿児島の上野原遺跡を訪ねたことがある。
およそ9500年前の縄文時代の定住化したムラで、
国内最大級のものだという。

鹿児島市内から、車でおよそ1時間半。
花は霧島・煙草は国分で知られた国分市の郊外の
丘の上に遺跡はあった。

北に霧島連山、南に錦江湾をはさんで、桜島が望める。

最初の印象は、青森の三内丸山遺跡との不思議な
共通性だった。

三内丸山遺跡は、下北半島と津軽半島に抱かれた
陸奥湾の奥の小高い丘の上にある。

上野原遺跡は、大隈半島と薩摩半島に囲まれた
錦江湾の奥にある。

三内丸山を南北逆にすると、上野原遺跡をとりまく
地形にきわめてよく似ているのである。

さらに、共通点を見ていくと、海峡の存在がある。
三内丸山遺跡は、津軽海峡をはさんで、遠く
北海道・サハリンへとつながる。
上野原遺跡は、大隈海峡をこえて、屋久島・奄美大島と
密接なつながりを持つ。
2つの遺跡は、海峡を意識した交流の拠点の意味合いを
持っていたのではないか。

さらに、火山との深いかかわりがある。
上野原遺跡は、当時活火山桜島の真向かいにあった。
朝な夕なに、桜島の噴煙を眺め、自然に対する恐れと祈りの
感情を抱きながら日々過ごしていたに違いない。
三内丸山の場合は、その時代噴煙を上げていたであろう
恐山の存在が、考えられる。

ここから先は、わたしの仮説であるが、縄文人には
縄文人の好みの風水があり、それが2つの遺跡の
ロケーションに色濃く現れているのではないだろうか。

さらに空想をたくましくさせてもらえば、日本列島の
どこかに、まだまだこれに似た縄文人の風水を投影した
縄文遺跡があるのではないかと思っている。

ひょとしたら、日本海側の京都から北陸にかけてのどこかに。

いつかそれを探す縄文の旅に出てみたいものだ。


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by kitanojomonjin | 2005-06-22 12:33 | 縄文 | Comments(1)

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(ブロギニストの散歩道から)

戦後日本で、国土計画プランナーの第一人者として
活躍した下河辺淳氏は、3度、三内丸山遺跡を
訪ねた。

その結果、今こそ縄文の智恵に学べという。

地震、洪水などの自然災害に対して、縄文人の丘が、
いかに安全か。

下河辺氏の発言を縄文ファイル68号から、拾ってみよう。

「日本の人口は、江戸時代で4000万人くらいだったのが、
20世紀で1億2500万人と、3倍ちょっとに激増したんですね。」

「その激増した人間が、縄文をまったく無視して
海岸に住んだんですね。
で、その報いが今きはじめたわけです。
飛行場は沈下しちゃう、洪水の被害があり、ダムがいいか
堤防がいいかでさえもめる。」

これからの日本を考える時、縄文人の丘の発想が大切だという。

「1億2500万人が100年で7000万人を割るだろういう
予測でして、その時、どこに住むかという議論を
今問い直さなきゃならない。
そうしたら縄文人の丘っていうのが魅力なんですね。」

「縄文人が選んだ丘っていうのは生態系として非常に
安定しているところです。
だから縄文に学ぶということは国土計画としては
基本的なテーマになってきたと思います。」

これは、国土計画の第一人者ですら無視できないほど
縄文人の、住まいとしての土地選びが優れていたことを
物語っているといえよう。


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by kitanojomonjin | 2005-06-20 14:40 | 縄文 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

現代に縄文を読み取る着想について考えると、
どうしても司馬遼太郎さんからいただいた1枚の
ハガキのことを思い出す。

1994年8月、三内丸山遺跡が一躍話題になり、
現地説明会に2日で8000人の人が、集まった。

そのことを司馬さんに報告したところ、司馬さんから
おハガキをいただいた。

「県下8000人の人々がきてくれたとのこと、
近頃これほどのよろこびをおぼえたことはありません。
一つは、遠きものへのあこがれ、
2つは遠きものを自分に組み入れる自己の確立の
よろこびというものでしょう。」

さらに、つぎのように続く。

「他者からみれば、ただのアナボコをみてさまざまに
想像を構築できる教養をひとびとは(戦後50年のあいだに)
身につけたということです。」

20世紀末にして、わたしたちは、アナボコをみて縄文を
構築できる想像力を手に入れたのである。


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by kitanojomonjin | 2005-06-17 20:59 | 司馬遼太郎さん | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

かつて、スペインのチンチョンという町を訪ねたことがある。
そこは、最もスペイン的な町といわれている。
マドリッドの南東1時間ほどのところに、その町はある。

町の中央に、広場があった。
その周りをバルコニーつきの二階建ての木造長屋が
ぐるりと囲んでいる。

実は、ここは闘牛の町なのだ。
夏の祭りともなれば、猛々しい闘牛が走り回り、
広場が、闘牛場になる。
そして、バルコニーは、格好の観客席になるという。

しかし、私が訪ねた時は、何の変哲もないのどかな
スペインの田舎町のたたずまいだった。
午後の時間は、ゆったりと流れていた。

ピッチャーに、サングリアと氷をたっぷり入れて、
それで喉の渇きを癒しながら、午後のシエスタの
時間を過ごす。
それが、スペインの至福の時間である。

昼下がりの町には、犬1匹通らなかった。
テーブルに足を上げて、深く椅子にもたれていると、
アメリカ西部の街角のガンマン無宿にでも
なったような気になる。

その時だった。
突然、広場に面した教会の鐘がなり、町の人々が
教会から出てきた。
中央に、白いウエディング衣装の若いカップルがいた。
人々は、二人に花を投げ、キスの雨を降らせて、
祝福した。

ひとしきり賑わった後、再び静寂が訪れた。
先ほどのことは、まるで白昼夢のように
静まり返っていた。

なんでもないスペインの田舎町のほほえましい光景が、
時折、とても懐かしく思い出される。

あそこには、わたしたちが、ともすれば忘れがちな
典型的なしあわせの表情と時間が溢れていたように思う。


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by kitanojomonjin | 2005-06-17 12:12 | 旅の街角から | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

美術館を訪ねて、折悪しく休館日というときほど、
残念なことはない。海外の場合は、特にそうである。

ウィーンの美術史美術館を訪ねた時がそうだった。
チャンスは、その日しかなかった。
ワラにもすがる思いで、入館案内をめくっていたら、
そんな人のために、夕方の数時間開館するサービスが
あることが、わかった。

なかなかイキな計らいである。
(今もやっているかはぜひ確認してみてください。)

あまりこのサービスは、知られていないようだった。
入館者は、自分以外ほとんどだれもいなかった。
美術館内の作品をじっくり見ることが出来た。

圧巻は、ヴェラスケスの部屋である。
スペイン王家の王子皇女の肖像が、つぶらな瞳で
こちらを見ている。
いずれも、幼くして亡くなり、薄幸の運命を
たどっているという。

次に、ブリューゲルの部屋。
北欧の人々の暮らしが、いきいきと描かれていて
飽きない。

気がつくと、いつしか夕陽がさしこみ、ハプスブルグ家の
残照の濃密な時間を心ゆくまで堪能できた。

これも、国際都市ウィーンのイキな計らいのおかげである。


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by kitanojomonjin | 2005-06-15 11:21 | 旅の街角から | Comments(2)