<   2005年 05月 ( 13 )   > この月の画像一覧

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毎朝散歩する野川の周辺の畑では、いま
じゃがいもの花が咲き誇っている。
この花を見ると、思い出すことがある。

随分以前、札幌に住んでいたことがある。
結婚早々のころだった。
妻が体調を壊して入院したことがあった。

夫は、仕事々々といって深夜まで帰ってこない。
知らない土地で、妻は心身ともに疲れていた。

同じ病室に、喜茂別の農家のおばさんがいた。
退院した後、妻は、その喜茂別のおばさんの
家に遊びに行った。

ニセコの山のふもとに広がる喜茂別町は、
じゃがいもとアスパラの産地だった。
一面じゃがいもの畑が広がっていたという。

それをきっかけに、妻は元気を取り戻した。
喜茂別の農家のおばさんの暖かい人情と
北海道の大自然が元気をくれたのだと思う。

感謝々々である。

ちなみに、じゃがいもの花の花ことばは、「情け深い」。


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by kitanojomonjin | 2005-05-30 11:15 | ブロギニストの散歩道 | Comments(20)

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(縄文塾で縄文人の旅について語る小林青樹さん)
(写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

縄文塾で、以前、考古研究者の小林青樹さんから、
びっくりする話をうかがった。
東日本の縄文人が、西日本に旅をしているというのだ。

小林さんは、土器もち寄り会という研究会を続けたところ、
縄文晩期の西日本の土器に混じって、東日本の土器が
出土している事を発見した。

これは、土器が移動したのか、ヒトが移動したのか
どちらかである。

さらに調査すると、西日本の土を使って作らた
東日本のタイプの土器が発見された。

同じ縄文土器でも、この時代シンプルな西日本の土器に
比べ、東日本の土器は、個性的な装飾が施されていて、
西日本の縄文人が作ることは極めて困難である。

したがって、東の縄文人が西日本に来ていたとしか
考えられないという。

では、何のために?

ここからさらに驚くべき話が続く。

小林さんの考えはこうだ。
折りしも、このころ西日本には、新しい稲作技術が
中国や朝鮮半島からもたらされていた。
東の縄文人は、その新しい技術を知るために、
西へ移動したのではないかという。

にわかには、信じられない話ではあるが、
本当なら、私たちの先祖の縄文人は、昔から
ずいぶん好奇心旺盛で、新し物好きだった
ことになる。

それにしても、縄文人の旅というのは、
いったいどんな具合だったのだろうか。
謎がどんどん深まっていく。


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by kitanojomonjin | 2005-05-20 11:57 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(三内丸山遺跡を訪れた石毛直道さん・左)
(写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

梅棹忠夫さんについで、国立民族学博物館長に
なられた石毛直道さんも、三内丸山遺跡を
訪ねられた。

その時、とても興味深いお話をうかがうことが出来た。
その精神が、縄文の市民運動の大きな支えに
なったともいえる。

石毛さんの話では、縄文時代の味付けも調味料も
現在ほとんどわかっていないという。

石毛さんは、マタギの習俗に注目する。
マタギの習俗では、春、若葉を食べたカモシカの
腸の中味を搾り出し、肉につけて食べる。
このペースト状のものが、香ばしい調味料の
役目を果たした。
縄文人も、こんな工夫をしていたのではないかという。

さらに、縄文時代の調理法や用具については、
ほとんどわかっていないという。

ここで、石毛さんは、声を大にして言われた。
「現代人のくらしの中からもう一度縄文のくらしを
 見直してみるーそういう縄文生活学が今こそ
 必要なんです。」

それは、考古学者に任せきりにせず、一般の人々も
参加すべきだといわれた。
なぜなら、一般の人こそくらしの達人なのだから。

その精神を反映してか、かつて青森市の市場団地で
縄文のシンポジュウムが開かれたと聞く。

魚屋さんや八百屋さんが、縄文人のことを考える。
想像するだけで、楽しくなってくるではないか。

現に、青森の市場団地の店頭に並んでいる魚や
山菜は、縄文時代とほとんど変わっていないのだから。


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by kitanojomonjin | 2005-05-20 11:38 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(三内丸山遺跡を訪ねた梅棹忠夫さん)
(写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

青森市の三内丸山遺跡は、1994年一躍注目を
集めた。

そのきっかけは、直径1メートル近い柱穴が、
2個ずつ並列に6個発見されたのが発端だった。
しかも、柱の一部が腐らずに一部出土したのである。

弥生時代の吉野ヶ里遺跡にも、望楼という木造の
巨大建造物が立っていたことが知られていた。
ひょっとしたらその望楼より高いかもしれないと
言うので大騒ぎになった。

吉野ヶ里の望楼より高いかどうかは別にして、
その後、柱穴の底の土に加えられた圧力を
計測したところ、10メートル以上の柱が林立して
いたことは、間違いないと見られている。

現在、ロシアからクリ材が輸入されて、遺跡に
15メートルの高さの柱が6本復元されている。

三内丸山遺跡を訪れた国立民族学博物館の
元館長の梅棹忠夫さんは、これは神殿ではないかと
指摘している。

縄文時代を起点に、日本列島に、弥生時代の吉野ヶ里、
後の時代の出雲大社の巨大なやしろにまで連なる
巨木文化があったのではないかと梅棹さんは、イメージを
広げていく。

そしてその延長線上に、法隆寺を置くことは
出来ないだろうか。

中国の寺社建築の渡来技術を駆使して、渡来の
技術者が腕を振るったのが法隆寺であることは、
間違いない。

ただその過程で、日本古来の巨木文化を
何らかの形で取り込んだ形跡は、ないのだろうか。

法隆寺が、東アジアで、翻れば、世界最古の木造建築
として、存在する背景を探ってみたいと思う。


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by kitanojomonjin | 2005-05-19 19:12 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(「食べたものを淡々と記録するよ」2005.5.5より)

ブログの「食べたものを淡々と記録するよ」の
最近のページである。
この日の朝食は、イタリアン・バイキング。

このブログの魅力は、朝昼晩とにかく食べたものを
「淡々と」記録するところにある。
余計なコメントはない。
一日の最後に「ごちそうさま」と一言。

ただし、写真の質感は、すばらしいものがある。
料理番組のテキストの写真に負けないできばえである。

ところが、このブログが一瞬揺らいだときがあった。
2004年10月23日の新潟地震を境に、食べ物が
ガラリと変わるのである。
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(「食べたものを淡々と記録するよ」2004.10.24より)

おそらく避難所での光景だろう。
2004年10月24日の朝食は、水のペットボトル一本。

ここで、このブログの主人は、おおきな岐路に
立ったことだろう。
地震の話に大きくカーブを切るか、「淡々と」路線を続けるか。
(わたしなら、がらりと方針を変えて地震の話に専念するだろう。)

ところが、このブログの主人は、あくまでも「淡々と」を続けた。
それを貫き通した。
それもひとつの行き方だと思う。
「淡々と」した記録の中に、わたしたちは、しっかり地震の影を感じる。

ブログというものがあくまでも、個性の産物であるということ、
さらに、ブログは、刻々と移り変わる時間の中にあり、
「同時性」が大きなウエイトをしめていることがよくわかる。

ブログの魅力は、こんなところにもあるのだと思う。


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by kitanojomonjin | 2005-05-10 19:12 | ブログ論 | Comments(0)

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まだブログ歴3ヶ月だが、いくどかいわゆるシンクロニシティ
(共時性)らしき体験をした。

それは、ふるさと津軽の教会の話のときだった。
弘前昇天教会というレンガ造りの教会の付属幼稚園に
通っていたことを書いた。

その直後、「わたしも同じ幼稚園に通っていた」 という女性
(やまやま2さん)からコメントをいただいた。

次に、その教会は、アメリカの宗教家で建築家の
J.M.ガーディナーの設計によること、彼が設計した
ほかの教会をいつか訪ねてみたいと書いた。

すると、さっそくガーディナーゆかりの日光真光教会で
オルガンの演奏をしている女性(フルリーナさん)から
ガーディナーの墓の存在と碑文を教えてもらった。
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(日光真光教会のステンドグラス)
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(NOT DEAD BUT LIVING-ガーディナーの墓の銘文)

一世紀も前のアメリカ人J.M.ガーディナーとその教会の
話題から、偶然のネットワークが次々に広がっていった。

ほぼ同じ時期に、ガーディナーと教会について関心を
持っている人がちゃんといたのである。

しかもブログは、瞬時にその人たちと連絡を取れる。
ブログは、じつに不思議な可能性を秘めた道具(ツール)
ではないか。

興味深いブログのシンクロシニティ体験があったら
教えてください。


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by kitanojomonjin | 2005-05-10 18:00 | ブログ論 | Comments(2)

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ブログとは何か?
どうしてブログは誕生したのか?
それを知りたくてブログの先輩Kさんに聞いたところ、
一冊の本を紹介してくれた。
それが、「1日5分の口コミプロモーションブログ」。

ナルホドとうなづけるブログの実感的なことが
記されていて面白かった。

例えば、
「無意識な情報でも積み重なればそれを運営する
ブロガーの顔が見えてくるので、それはいずれ
出会いにもつながる。ブログはそういう自分の等身大の
価値観に共鳴してくれるコミュニティを発掘してくれる
要素があるのです」

ナルホド。

中でも、最も興味深かったのは、次のくだりのところ。

「ぜんぜん知らない人同士のブログが同じころ、
たまたま同じようなことを書いたりするのを発見して
驚くといういわゆるシンクロニシティ(共時性)という
現象が、より数を増したとき、またブログでの活動に
多くの共感が集まったとき、現象としてブログの
強大な発言力が生まれる瞬間があるということだ。」

たしかに、このシンクロシニティ(共時性)らしきものを
感じる瞬間がある。その時、非常に強く共鳴する
感覚が生まれるのは間違いない。
しばらくこのことを考えてみたい。


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by kitanojomonjin | 2005-05-09 16:02 | ブログ論 | Comments(0)

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(津軽の地吹雪)

津軽を愛した写真家加藤惣平の意外なエピソードを
最近知った。たまたまインターネットを検索していたら
見つけた話である。

法務省に勤めていた加藤惣平は、横浜から有楽町まで
毎日通勤していた。
ある日、思い立って、その通勤途中の自分の姿を、
カメラで撮り続けた。手袋に穴を開け、そこからカメラの
ファインダーをのぞかせて、2ヶ月の間撮り続けたという。

「そこには、通勤者の決して人の流れに逆らったり、
渦の中であがいて無益な損耗をしない表情が写って
いた」という。

彼は、この写真を11枚の組写真にまとめた。
題して、「仮死の時間」。
彼は、自分の置かれている状況をひたすら見続けようとした。

このエピソードが、加藤惣平の人生というジグゾーパズルで
どういう意味を持つのかはわからない。
ただ、彼は、単なる情の人ではなく、ひたすら見続ける
眼の人であったのではないかと思う。

加藤惣平は、津軽へ来て、さらに津軽的なるものを
探し求めた。
金縛りにあいながら、あるいは吹雪の道をたどりながら、
彼は、ひたすら眼であり続けようとしたのではないか。


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by kitanojomonjin | 2005-05-09 15:20 | 津軽 | Comments(2)

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(高山稲荷・「遥かなる津軽」より)

加藤惣平の写真の中で、わたしの最も好きな一枚は
高山稲荷の写真である。

海にむかって一本の雪道がのびて、その先に
鳥居が立っている。

海鳴りの音が聞こえ、冷たい風が舞い上がり、
寒さが足元から這い上がってくるようだ。

加藤惣平は、ここで金縛りに会ったというが、
べつに特筆すべきことではない。
津軽では、いたるところで金縛りの話を聞く。

津軽は、死者に最も近い場所といわれている。
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 (影日沢の地蔵堂・「遥かなる津軽」より)

おびただしい数の地蔵尊に、毎年新しい服が
着せられる。
そこでは、死者がまるで生きているように扱われる。

民俗学者赤坂憲雄さんは、2000年7月の縄文塾で
次のように語った。

「縄文のムラは、中心に死者たちが埋葬されて、
それと接して、生きる人たちの暮らしの場が
取り囲んでいる。
ところが、弥生のムラでは生きている人たちの村は
濠で囲まれ、死者たちは遠ざけられて外にある。」

「弥生は、死を穢れとして遠ざける文化で、
縄文は、死を遠ざけることのない文化なのではないか。」

そして、赤坂さんは、東北の文化にも、言及している。

「東北の文化というのは、死を穢れとして忌むことが
少なく、むしろ死者を身近に置きたがる文化なのでは
ないか。」

津軽では、死ねばヤマにいく、そこで死者に会える
といわれてきた。

津軽をはじめ、東北の人々の死者との近さは、縄文にまで
さかのぼるのだろうか。



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by kitanojomonjin | 2005-05-04 15:52 | 津軽 | Comments(1)

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(出来島・「遥かなる津軽」より)

写真集「遥かなる津軽」に添えられた小文は、
穏やかな加藤惣平の人柄を感じさせる。
しかし、出来島という写真に添えられた「津軽楢山」と
いう一文だけは、一瞬彼の激しさをのぞかせている。

「姥捨て伝説は、形を変えて各地方に伝えられているが、
津軽の出来島は、まったく特異なストーリーだ。
海の洲に捨てられた老人たちは、嵐の夜に座礁した
難破船を襲い、食料を略奪して生きながらえてしまう、
という凄い話だ。
「二十四時間戦えます」からひとたびリタイヤすると、
とたんに戦意をなくしてしまう。
老いを生きるということは、難破船を襲うくらいの覚悟が
なければ生きられない。それがいま失われつつある。」

一瞬かいまみせた加藤惣平の老いの哲学。
自分に向かって投げられた言葉か、あるいは
同時代の人間に向けられたものか。

そこに、ひたむきに巡礼者の道を歩もうとする加藤惣平の
姿があるように思える。

きょう5月6日は、加藤惣平の命日である。
そして、奇しくも十三回忌にあたる。


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by kitanojomonjin | 2005-05-04 15:21 | 津軽 | Comments(0)