<   2005年 04月 ( 14 )   > この月の画像一覧

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(土田ヒロミ写真集「俗神」より)

写真集「俗神」が、映し出したおよそ30年前の日本にあった
猥雑さについて、増補改訂版で、小松和彦は見事にその意味を
解き明かしている。

「不思議なことに、この写真に写った猥雑な人々には、
一種の霊気が立ち上っているのだ。
「俗神」を見ておもうのは、おそらくこの30年間で、人間生活の
ありかたが根本的なところで変化してしまったのではなかろうか
という思いである。」

「今では、かつての俗神たちの姿をわたしたちの生活の中に、
わたしたちの周囲に見出すことはむずかしい。」

「わたしたちは、楽しいときに笑い、悲しいときには泣き、
苦しいときには叫び、きれいなものも汚いものも同居していた
日常生活を放棄し、誰の注視も受けないように、似通った
外皮(服装)で包み込み、目立たぬように生きる日常生活に
埋没してしまったのである。」

そして思う。
そのころまで、われわれは、縄文人の尻尾を
持っていたのではないか。


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by kitanojomonjin | 2005-04-28 20:02 | 津軽 | Comments(0)

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弘前の桜は、きのうようやく開花宣言したという。

土田ヒロミの写真集「俗神」の増補改訂版が、
去年およそ30年ぶりに出版された。
その表紙を飾る写真「弘前・1972」
おそらく33年前のさくらまつりのころ撮影されたものである。

小男が、大きな女にしがみついて、至福の表情を
している。
この写真は、インパクトが強い。
猥雑さそのものであるが、なぜか懐かしさを誘う。

イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニの作品には、
主人公の思い出の1シーンとして、きまって豊満な女性が、
登場する。海岸で踊る女性に圧倒されて、若き日の
主人公は、いつも呆然と立っている。
この写真は、「津軽のフェリーニ」とでも名づけたい1枚である。

30年前の弘前のさくらまつりは、実に猥雑さに溢れていた。
公園の靖国神社の前の一角には、いろいろな見世物小屋が出た。
お化け屋敷。オートバイの曲乗りショー。
おまけに、ストリップ小屋まで出ていた。
いったいあれは、何だったのだろうか。

あの猥雑さについて考えてみたい。(続く)


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by kitanojomonjin | 2005-04-28 19:30 | 津軽 | Comments(2)

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弘前からの帰りの車窓から、カワヨグリーン牧場が見えた。
東北線の三沢駅を過ぎて、すぐ左手の丘に、緑の屋根の
ロッジを中心に、建物が点在している。
ここが、わたしのもうひとつのこころのふるさとである。

最初、この丘の上に、ユースホステルが建った。
ペアレントの川口夫妻の暖かい人柄のせいで、いつしか
牧場に青春の思い出を重ねた人の輪ができた。
その人の輪を中心にして、親睦の会「牧場クラブ」が
誕生した。もう早いもので、27年になるという。
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家に戻ったら、「牧場クラブ」の機関誌が届いていた。
そこに 記されているロッジ宣言。

「人間らしく生きよう
 人間らしくつきあおう
 自然の中で語り合おう」

かって、この牧場に、この宣言をみごとに体現していた
人物がいた。
ボクのおじさんである。

いつも訪ねると、「ミィ.アミィーゴ(わが友よ)」と
スペイン語で言って、両手を大きく広げて、抱きついてくる。

おじさんには、若いころ夢があった。
一旗挙げようとメキシコへわたった。
言葉は、市場で勉強した。
市場に並ぶ品物や、値段を順に覚えていったという。
語学の勉強はこれが一番といつもおじさんは言っていた。
だが、戦争が始まり、おじさんはやむなく日本へ帰った。

牧場にいた時、おじさんは、温室で世界中の草花を
育てていた。ネパールへ農業指導にも行った。
夕食の時いつもコップの日本酒をおいしそうに飲んでいた。
ユーモアを忘れず明るいおじさんは、みんなから慕われていた。
朝早く起きてラジオ講座でスペイン語の勉強を欠かさなかった。
おじさんの夢は、生涯続いていたのだと思う。

そのおじさんが、亡くなってから7年たつ。
今も時々、おじさんのことを思い出す。
世界に通用する日本人とは、おじさんみたいな人を
言うのではないかと思う。


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by kitanojomonjin | 2005-04-26 15:43 | カルチャー通信 | Comments(0)

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アメリカの建築家J・M・ガーディナーが、なぜ弘前に
教会を建てたのか。それは、弘前にそれを受け入れる
素地(風土)があったのではないだろうか。

明治のはじめから、弘前の洋館は、堀江佐吉という
地元の大工の棟梁とその弟子たちによって、次々に
建てられた。

冒頭の写真、青森銀行記念館も、堀江佐吉の手になる。
弘前の洋館は、もっぱら木造のものであった。
次の写真を見ていただきたい。
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日本キリスト教団弘前教会。堀江佐吉の四男、
斉藤伊三郎の手による。

ヨーロッパの石造りの教会が、そっくり木で作られている。
専門家の話では、石造りの建築のアクセサリーも、
そのまま木で作られているという。
まさに、見よう見まねの西洋建築だった。

これらの建築は、「偽西洋」といわれるらしいが、
初期の日本の大工さん達の意気込みが、ひしひしと
伝わってくるようだ。

堀江佐吉は、はじめ雑誌の挿絵などをお手本にしたと
いわれている。
そのうち、函館港が開港し、さっそく佐吉は函館を訪ねた。
そこで見た外国人の風俗や建物が大いに参考になったという。
堀江佐吉が、函館を訪れた時のスケッチが残っているという。
堀江の感動が溢れているに違いない。
ぜひ見てみたい。(ご存知の方は、ぜひ教えていただきたい。)

この時代、実は、日本中の大工さん達が、それまでの
仕事を失い、新しい仕事を求めて、大移動が起きた。
いわば、大工さん達のルネサンスが起きた。
東北各地や関東および伊豆あたりに、ユニークな建物が
次々に建ったという。

弘前の洋館のフロンティアを担ったのは、堀江佐吉だった。
文明開化の時代に、好奇心いっぱいで、見よう見まねで
西洋建築を次々に建てた佐吉。

その流れを汲む洋館が、立ち並んでいた街・弘前だからこそ
ガーディナーは、すすんで教会の設計を引き受けたのでは
ないだろうか。
そんな気がしてならない。


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by kitanojomonjin | 2005-04-25 12:05 | 津軽 | Comments(2)

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引き続き、弘前昇天教会について。
弘前昇天教会は、J・M・ガーディナーというアメリカ人の
設計によって、大正10年に建てられた。
このJ・M・ガーディナーは、実に面白い経歴の人物だった。

ガーディナーは、ハーバード大学を中退後、1880年(明治13年)、
23歳の若さで日本にわたる。
立教大学校(後の立教大学)の学長を務めるが、
34歳の時、学長を辞め、建築に専念して、日本中の教会を建てた。
日本および日本人を愛し、娘にハスノハナ(蓮の花)という
名をつけたほどだという。

ガーディナーが設計し、現存する3つの教会をいつか
訪ねてみたいと思っている。

第一に、日光真光教会。石積みの教会だが、ここの
礼拝堂の床下に、ガーディナーは眠っているという。
日本を愛したガーディナーは、終生日本で過ごした。

あとの二つは、いずれもレンガ造りの教会である。
聖アグネス教会(京都市上京区烏丸下立売角)
聖ヨハネ教会(明治村)
写真で見ると、それぞれ風格のある立派な教会である。

それらの現存するレンガ造りの教会に比べて、
弘前昇天教会は、実に小ぶりである。
それだけに、懐かしさがいっそう増す。

この教会が建った大正10年は、ガーディナーの晩年に近い。
23歳で日本に渡ったガーディナーは、ふるさとアメリカを
懐かしんでこの教会を設計したのではないだろうか。
ガーディナーの生まれ故郷アメリカのセントルイスの
街角を曲がると、ひょっこりこんな教会が建っていたり
するのではないだろうか。

いずれにしても、アメリカのフロンティア・スピリットの表れが
今も、北日本の城下町に建っているのは、不思議な
めぐり合わせではないか。

(J・M・ガーディナーの人柄および建築について、詳しい方
 ぜひ教えてください。)


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by kitanojomonjin | 2005-04-22 18:50 | 津軽 | Comments(6)

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城下町弘前には、意外に洋館が多い。
中でも、わたしが、最も愛着を持っているのは、
小ぶりなレンガ造りの弘前昇天教会である。
実は、わたしは、この教会の付属幼稚園に通っていた。

先日、弘前の奈良美智展をのぞいたとき、
会場の吉井酒造レンガ倉庫のオーナーの吉井さんに
お会いした。そのとき、たまたま吉井さんも同じ幼稚園に
通っておられたことがわかった。
学校の先輩にお会いすることはよくあるが、幼稚園の先輩は
初めてである。

随分昔のことなので、ほとんど幼稚園の思い出は、
記憶にないが、昼のお弁当の前に、きまって
「父と子と精霊の名においてアーメン」とかいうお祈りを
したのだけは、覚えている。

そのお祈りが、三位一体という大事な意味を持っていること、
教会の飾り窓のクローバーは、そのことと密接な関係があること、
さらに、この教会は英国公教会の流れをくみアメリカを経由して、
日本に入ってきたことなどが、ごく最近わかった。
城下町弘前は、一面随分ハイカラな雰囲気をもっていたのである。

弘前の奈良美智展のオープニングにあたっての内覧会は、
弘前昇天教会の正午の鐘を合図に、会場の扉が
開かれたという。
弘前昇天教会は、いまも弘前の暮らしの中に、しっかり
息づいていると思った。


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by kitanojomonjin | 2005-04-22 13:03 | 津軽 | Comments(5)

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弘前で、奈良美智展を覗いた時たまたまNPO・harappaの

メンバーのひとり立木さんに会った。奈良美智展が吉井酒造の

レンガ倉庫で実現した背景には、このNPOの果たした役割が

大きい。最初の奈良美智展は、2年前、同じ場所で開かれ、

5万9000人の入場者を記録した。それは、広くボランティアを

募る独特の運営方式が、多くの人の共感を呼んだためだと思う。

今回も、250人のボランティアが参加しているという。

もともと、このレンガ倉庫は、地元では、よく知られていたが、

そこを展覧会場にしたらという発想は、浮かんでは消え、

なかなか実現しなかった。それが、実現にこぎつけられたのは、

NPOの熱意がオーナーの吉井さんの気持ちを動かしたのだと思う。

奈良美智さんは、記者会見で、「今回は来年夏に弘前で

開催する大きな個展の導入だ。」と語ったという。

立木さんの話でも、来年夏の弘前展は、これまでの奈良美智展の

集大成になるだろうという。その後しばらく個展は開かないと

いう意気込みだという。

来年夏の弘前展を大いに、期待したいものである。

(ちなみに、今回の弘前の奈良美智展は、5月22日まで。
         月曜は休館。ただし、5月2日は開館。)


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by kitanojomonjin | 2005-04-20 15:42 | 津軽 | Comments(2)

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先週末、用事で、弘前へ行ってきた。

天候に恵まれ、岩木山もくっきり。

ただ、水田にまだ水ははられていなかった。

今月下旬さくら祭りが始まるが、桜の蕾はまだ固かった。
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弘前で、ちょうど奈良美智の個展をやっていたのでのぞいて見た。

弘前は、奈良美智のふるさとである。

会場は、吉井酒造煉瓦(レンガ)倉庫。

吉野町のレンガ倉庫として町並みにしっくり溶け込んでいる。

このレンガの倉庫の中を、白いペンキを塗った小さな

区画で仕切り、奈良美智の作品が、ゆったりと展示されていた。

暗い倉庫の廊下を通って、白い小部屋の中に浮かび上がる

奈良作品を見ているうちに、座敷わらしの話を思い出した。

東北の長者の家の奥座敷に住み着いている子供のオバケが、

座敷わらしである。ほかのオバケと違って、座敷わらしを

目撃すると、いいことがあるといわれている。

奈良美智の少女は、幸せをもたらす現代の座敷わらしなの

かもしれない。それが、多くの人の心をひきつける魅力の

ひとつになっているのかもしれない。


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by kitanojomonjin | 2005-04-19 14:45 | 津軽 | Comments(6)

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(写真提供 NPO法人 三内丸山縄文発信の会)

クジラを手がかりに、縄文の海の道を考察する
ユニークなお話が、1998年9月の縄文塾であった。
講師は、現在、地球研教授の秋道智弥先生。
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津軽海峡をはさんで、青森県の陸奥湾と北海道の噴火湾は、
クジラが回遊するのに最適の海だという。
しかも、北海道の南茅部の大船C遺跡からは、クジラの
骨が大量に出土し、青森県の三内丸山からは、
クジラの骨で作った刀が出土している。

このことから、秋道先生は、次のように推論する。
「道南の噴火湾がクジラの漁場としては、非常に
重要であったことは、おそらく間違いありません。
そこで考えなければならないのは、三内丸山みたいな
センターがあって、そこがクジラの消費地になって
いたのではないかということです。」

秋道先生は、クジラの生態および遺跡の骨の分布から
縄文の海の道を浮かび上がらせようとしている。
クジラが、縄文時代をよりいっそう語り明かして
くれるかもしれないのだ。


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by kitanojomonjin | 2005-04-15 20:36 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(北海道・礼文島船泊遺跡・日本人はるかな旅展・図録より)

東アジアの海の道が、広がっていたのは、
中世にとどまらない。
縄文時代もそれに劣らず、海を通じて広い交流が
あったことが、明らかになっている。

わたしたちは、これまで縄文塾と名付けて、講師の
先生を招きお話を伺ってきた。この10年その数50回近くなる。
いつの日かその一端を市民向けの縄文講座に展開できたら
と願っている。名付けて、縄文ドリーム大学。
ひとまず、ブログで、随時紹介していこう。

2000年10月の縄文塾での西本豊弘先生(歴博教授)の
北海道・礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡のお話は
とても興味深いものだった。
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礼文島の船泊遺跡は、日本海の北の交易拠点であり、
南は九州、沖縄から、北は、サハリンをはじめロシア極東地域と
交易をしていた可能性が強く浮かびあってきたのである。

遺跡の発掘調査によると、貝玉がおよそ2万点と貝玉を
作るためのメノウ製の錐が、およそ10万個出てきた。
ここは、まさに、縄文のアクセサリー工房だったのである。

まず北を示すものはー
西本先生のお話では、「礼文島では、ロシア極東地域で
出ている貝玉のすべてのタイプがそろっている。
ロシアの貝玉は、礼文島で作られ海を渡っているのでは
ないだろうか。」という。

次に、南を示すものはー
九州や沖縄にしか生息していないイモガイの装飾品が出ている。
このほか、南の暖かい海のマクラガイ、タカラガイも
多数出ている。

これらの各地の貝玉から、縄文時代、日本海に広がる
海の道(海道)の世界が浮かび上がってくる。
なんとロマンあふれる話ではないか。


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by kitanojomonjin | 2005-04-15 19:50 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)