<   2005年 03月 ( 15 )   > この月の画像一覧

あらためて、三内丸山遺跡の大型板状土偶について。

大型板状土偶は、三内丸山遺跡から出土した他の

土偶にくらべて、大きさといい造形といい、ひときわ

異彩を放っている。これは、どう受け止めたらいいのか。

国立民族学博物館の名誉教授小山修三さんは、ずばり

大型板状土偶をもって、土偶はお守りから、

女神に変わったという。

その根拠として、板状土偶の両耳にある穴を挙げる。

そこに、ひもを通して、壁にかけるようになったのだという。
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[写真提供 NPO法人 三内丸山縄文発信の会)

おそらく、お守りから女神になった土偶は、

個人や家庭の場を離れ、集団の場で、祈りの対象となり、

あるいは、独特の儀式が営まれたのではないだろうか。

そこで、どんな祈りがささげられ、どんな儀式が

くりひろげられたのか。

それを知るには、次のことが解き明かされる必要がある。

板状土偶の首と胴体が別々に出土している意味は?

さらに、板状土偶の口から垂直に穴が開いていることの

意味合いは何か?これらの不思議が明らかにできれば、

より縄文人のこころに迫ることが、できるのではないだろうか。


さらに、小山さんは、「女神の旅」ということを示唆した。

  「縄文時代の土偶に根本的に流れているのは、
   胸とお尻の強調にあきらかな女性だと思います。
   このような母親をイメージさせる、ある種の
   まがまがしさも含んだ女神像が、旧石器時代に
   ヨーロッパで立ち上がり、歩み始め、シベリアを
   とおって、日本に入ってきたと系譜的にたどることが
   可能です。女神が東に向かって進み、日本に
   たどりついたとみるわけです。」

現生人類ホモサピエンスの移動とともに、ユーラシヤ各地に

固有の女神が誕生していく。それを「女神の旅」とみなして、

ユーラシアの果ての日本列島までたどっていく。

なんと、スケールの大きいロマンに溢れた物語だろう。

いつかこの構想を、映像かイベントで実現したいものである。


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by kitanojomonjin | 2005-03-30 19:19 | 縄文 | Comments(1)

きょうも、土偶のお話。

三内丸山遺跡から出土した土偶の数は、これまで

およそ1500点以上にのぼるという。ひとつの遺跡から

これほどまとまって出土する例は、他にないという。

土偶の大きさは、大小いろいろで、口を開けている共通点は

あるが、よく見るとその表情はさまざまである。
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[写真提供 NPO法人 三内丸山縄文発信の会)

ここであらためて、土偶は何のために作られたのかという

疑問がわいてくる。それについて、三内丸山の遺跡の

調査をしている小笠原雅行さんが、興味深い意見を述べている。

(「土偶は語る」三内丸山縄文発信の会発行「縄文ファイル」60号所収)

小笠原さんは、三内丸山から出土する土偶を便宜上、

つぎの3つに分けて調査した。

   小型(7~8センチ以下)

   中型(7~8センチ以上で15~16センチ以下)

   大型(15~16センチ以上)

すると、次のことが、わかってきたという。

  「長い間作られ続ける土偶は、時期によって模様が
   変化していきます。その模様から見ると3種類の
   大きさの違いは常にあったようです。ですから、
   時期によって大きさが偏ることはありません。」

では、なぜ大きさの違いがあるのだろうか?

   「まず、考えられることは、用途の違いです。
    祭祀行為の様々な規模の違い(例えば集団用と
    個人あるいは家庭用)や内容の違い(ある特定の
    祭祀行為に特定の大きさ)などが考えられます。」

さらりと述べているが、実に、意味深な指摘である。

さらに、極めて興味深い指摘が、続く。

   「あるいは、地域によって作る大きさがある程度
    決まっていて、それが集められたのではないか
    ということも考えられます。」

   「例えば、北海道から出土する土偶は小さいものが
    多く、表現が簡素で三内丸山遺跡の小型の土偶と
    似ています。また、分析はまだ途中ですので
    決定的なことは言えませんが、土偶の粘土を
    調べると、三内丸山以外の粘土で作られたような
    ものもあるようです。」

土偶の分布や粘土の分析がすすめば、三内丸山遺跡の

性格がよりはっきりするかもしれない。

つまり」、各地の縄文人が土偶を持ち寄って集まる、

祭祀の場の色合いの強い、 一大センターだった

かもしれないのである。   


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by kitanojomonjin | 2005-03-29 18:28 | 縄文 | Comments(0)

三内丸山遺跡出土の大型板状土偶から、縄文人の

どんなこころを読み取ることができるのだろうか。

1998年11月大阪の太融寺というお寺で、縄文の集まりが

あった。(縄文塾という集まりで、これまで50回以上

開かれてきた。詳しくは、いずれ)

その時、民俗学者の小松和彦さんは、土偶について、

興味深いお話をされた。

  「三内丸山からいろいろな土偶が出てきますね。
  人間の顔のような、しかし人間の顔ではないような、
  みんな口を開けて、死ぬ直前の叫び声のような
  表情をした、絶叫しているような顔があります。
  ああいうようなものの中に、ひょっとしたら
  私たちの先祖が鬼とよんでいたようなものに
  相当するものがある可能性はあります。
  そういう眼を持ってみていくと、鬼的なもの、
  魔的なもの、まがまがしいものを表現することに
  よって、それから逃れることのできるような、
  そういう祭祀はあったのではないか。
  ですから、土偶が何のために作られていたかを
  見ていくときに、よい神様ばかりではなくて
  悪い神様もいたはずだというまなざしも必要になって
  くるのではないかという気がします。」
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(写真提供 NPO法人 三内丸山縄文発信の会)
国立民族学博物館の小山修三さんは、さらに

興味深い仮説を語ってくれた。

  「私は、土偶は面を被っているという仮説をもって
  おります。縄文時代は、たくさん面が出ているんです。
  三内丸山の土偶の顔を見ても、横から見ると
  角ばった出っ張りが付いているものがあって
  面をかぶっていることがわかります。
  面をかぶれば、何にでも簡単に化けられますからね。」

   
土偶の表情を、生を超越した、生と死のはざまと見るのか

仮面と見るのか意見のわかれるところである。

いずれにしても、そこには、感情のたかまりが頂点に

達した時のほうけたような無表情さえ読み取れる。

その無表情には、能面のように、悪の神の表情も

善の神の表情も併せ持っていたかもしれない。

その際、小松先生の次の発言が、ひとつの示唆を

与えてくれる。

  「採集狩猟民の社会で、シャーマンといわれる
  人たちは、常に病気を治したり、作物だとか
  天候だとかをコントロールするような能力を持ち、
  神々の世界との中で、よい神様と悪い神様とを
  分けていたわけです。おそらくそういうものを
  造形しただろう。」

ひょっとしたら、この土偶の表情は、そうしたシャーマンの

祈祷のときの表情を写し取ったものかもしれない。


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by kitanojomonjin | 2005-03-28 17:20 | 縄文 | Comments(0)

三内丸山遺跡から出土した大型板状土偶。

それから、縄文人のどんなこころを読み取れるのか?

それを考える前に、次の写真をごらんいただきたい。

いずれも三内丸山遺跡から出土した土偶である。
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(NPO法人 三内丸山縄文発信の会発行「縄文ファイル」より)
国立民族学博物館名誉教授小山修三さんは、かつて

「縄文合唱団」といったことがある。言い得て妙である。

「縄文合唱団」という指摘から、2つの特徴が

浮かび上がってくる。

まず、三内丸山出土の土偶は、口をあけているものが多い。

顔は、土偶の大きさによってさまざまだが、いずれも

口をあけているところから、何か通底するものがありそうだ。

もうひとつは、こうして並べてみると、中央の大型板状土偶が

大きさといい、造形のていねいさといい、ひときわ際立っている

ことがわかる。まるで、縄文合唱団のリーダーのようだ。

では、この大型板状土偶の表情は、縄文人のどんな

心を読み取れるのか?それは次回。


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by kitanojomonjin | 2005-03-28 11:32 | 縄文 | Comments(0)

1994年、青森市の三内丸山遺跡から、

高さ32センチの大型板状土偶が出土した。

あれから11年。縄文のことは、どのくらい

解明されたのか。わかったことと同じくらい

不思議も増している気がする。

まあ、そんなに慌てるまい。4000年以上前の

縄文人が、現代人につきつけた質問状と

思って、遺跡や遺物と向き合い、じっくり

考えてみよう。

まずは、板状土偶である。
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(写真提供 NPO法人 三内丸山縄文発信の会)
よく写真をごらんいただきたい。

胸と腹部にある3個のポッチは、乳房とおへそを

表し、女性をかたどっているといわれる。

よくみると、首のところに線が入っている。

実は、この土偶は、首と胴体がはなれて、

別のところから、出土している。

これも、不思議のひとつ。

最も興味深いのは、穴の不思議である。

土偶の口から、垂直に下まで、穴が開いているのだ。

この穴は、なにを意味するのだろう?

もうひとつ穴の不思議。土偶の両方の耳に穴が

あけられている。いったい何のために?

アナ不思議などといわずに、あなたも

写真とにらめっこして考えていただきたい。

縄文人からの質問状は、なかなかてごわい。




      [制限時間3分]








今わかっていることは、おおよそ次の通りである。

<口からの穴の不思議>
   口から入る穴から、現代人の常識では、
   食べ物の入り口から出口という消化器系の
   ルートを連想します。しかし、縄文人が、
   どのように考えていたかはわかりません。
   土偶が、女性を表していることから、
   豊穣につながる子宝の道・産道を表すという
   考えもあります。

<耳の穴の不思議>
   これは、土偶が板状になって、ひとりで立たない
   ことと関連していると見られます。
   つまり、吊り下げるための穴ではないかという
   見方があります。


土偶から、縄文人のどんな気持ちをよみとれるのか?

それは、次回をお楽しみに。

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by kitanojomonjin | 2005-03-25 18:02 | 縄文 | Comments(1)

最近、「渋谷ブロギニスト通り」は、どこにあるのかと

聞かれた。

それは、実在しているとも実在していないともいえる。

渋谷の文化村通りから、小田急線代々木八幡までの

一帯の街角の表情が、イメージとなっている。

しかし、「渋谷ブロギニスト通り」の実体は、ブログの

中にあるヴァーチャルな空間である。

そこは、ブロギニスト宣言(当ブログ3月7日参照)の

主旨に賛同したブロギニストが集い、文化情報を発信する場である。

現在、「渋谷ブロギニスト通り」には、当店を始め

3店が軒を並べている。ご紹介しよう。

最初の店は、「定年再出発 番組を作り続ける」

扱う品目は、「冬ソナ」「ブログ論」「ドキュメンタリー」ほか。

今年2月1日の定年をきっかけに開店した。

毛沢東は、「青年は朝8時の太陽だ」といったというが、

それにならえば、「定年は午後5時の太陽」といえよう。

夕まぐれの淡い太陽の輝きの面白さを存分に

見せてくれるだろう。

なんといっても、冬ソナの仕掛け人のひとりなので、

冬ソナの知られざる情報を紹介できるのが強みである。

このほか、ドキュメンタリー論、ブログ論について、

エネルギッシュに論陣を張っている。

次は、「レッドマンの癒し日記~クラシックから太極拳まで~」

3月11日に開店したばかりである。

なぜレッドマンなのか?太極拳とクラシックの

不思議な組み合わせの理由は?

などについて、おいおい明らかにされるだろう。

現在、太極拳、気功法についてそろろそろりと

立ち上がっている。

レッドマンのすごいところは、クラシック音楽に

対する造詣の深さと、欧米のクラシックゆかりの地の

膨大な写真コレクションを持っていることである。

近々そのコレクションが登場するという。乞うご期待。


さて、当「縄文ドリームタイム日記」も、「縄文」を

中心におきながら、「カルチャー通信」「ブログ論」

「フォト」と間口を広げていくつもりである。

今後とも、「渋谷ブロギニスト通り」を

よろしくお願いします。

(渋谷ブロギニスト通り各店には、右欄のエキサイトブログの

ブログ名をクリックすると、アクセスできます。)

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by kitanojomonjin | 2005-03-24 19:05 | ブログ論 | Comments(0)

渋谷ブロギニスト通りにも春が来た。
フォト・エッセーで綴る「渋谷ブロギニスト通りの春」
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      胸膨らむ春
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      街に春の彩があふれ
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      草花も美を競う
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      ホワイトデーのアンニュイとともに
       華やぎはうつろう

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by kitanojomonjin | 2005-03-23 00:30 | フォト・渋谷ブロギニスト通り | Comments(0)

前回にひき続き、縄文のお月見の話。

1999年に始まった縄文遺跡でのお月見は、

2004年、6回目を迎え、ひときわユニークなものになった。

アフリカの踊り手と太鼓の奏者を招いたのである。
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(NPO法人 三内丸山縄文発信の会発行「縄文ファイル」より)

月の出た遺跡に、アフリカの力強い歌声が響いた。

「きょうは、よき日。祭りが始まる。」

アフリカの語り部の家に伝わる伝統的な歌だという。

歌っているのは、ニャマ・カンテさん。西アフリカのギニア生まれ。

実は、ご主人は、国士舘大学教授の鈴木裕之さん。

鈴木さんは、音楽人類学を専攻しておられ、西アフリカへ

調査に行って出会ったのが、お二人の馴れ初めとか。

今は、娘の沙羅ちゃんといっしょに日本に住んでおられる。

リズムをとっているのは、ジェンベという太鼓とドゥンドゥンという

太鼓。いずれもアフリカの太鼓である。

奏者は、寺崎卓也さん、小川潤一郎さん、そしてセネガル・

ダカールうまれのブバカル・ガイさん。

太鼓のリズムに合わせて、ニャマ・カンテさんが踊りだした。

両手を水平に大きく広げては、正面で何度も打ち合わせる。

足で、大地を強く打ちリズムを取る。首を前後に大きく振ると、

長い髪が弧を描く。身に付けた和服のような衣装と

ダイナミックな動作は、次第に、熱気を帯びてくる。

それは、太古の昔、巫女あるいは、シャーマンが憑依(ひょうい)

していく姿に見えた。

しかも、遺跡に囲まれて、ニャマ・カンテさんは、

なんの違和感もなかった。逆に、実によく溶け込んでいる。

それも無理は、ないかもしれない。

そもそもアフリカは、現生人類ホモサピエンスのふるさと。

ホモサピエンスは、はるかな昔、アフリカを出発して旅に出た。

その旅の到達点の一つが日本列島だった。

このお月見の夜の踊りと太鼓の演奏は、遠くアフリカと

縄文のつながりを実感させてくれるものだった。


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by kitanojomonjin | 2005-03-22 18:27 | 縄文 | Comments(0)

 「21世紀に縄文人のけはいを追い求める夢見るブログ」 

 というキャッチフレーズで、立ち上げたこのブログも、

 3週間が過ぎようとしている。

 これまで、わたしが、縄文人のけはいを最も強く感じた

 体験をご紹介したい。

 それは、縄文の遺跡でのお月見の時だった。

 1999年9月25日夕方5時40分。北の巨大縄文遺跡に、

 十六夜の月は、姿をあらわし、みるみる中天に昇っていった。

 どこで見る月も同じと思われるかもしれないが、

 この月は、違っていた。

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(写真提供 NPO法人 三内丸山縄文発信の会)

そのころ綴った一文を紹介しよう。

  月は、現代の月でも、江戸の月でも、中世の月でも

  なかった。

  やはり、それは、古代の月であり、見方によっては、

  超古代の月なのかもしれない。

  満月の夜、ここに歴史上の人物が集う情景を夢想した。

  民俗学者柳田国男と稀代の博物学者南方熊楠が出会い、

  この地への興味を語り合う。そこに、江戸期ここを

  訪れた菅江真澄の霊が現れ、その想いを語り始める。

  菅江真澄が消えた後、中世の僧西行が乞食姿で

  現れ、もののあわれを語る。

  最後に、巫女の霊が登場し、この地に生きた人々の

  喜びと悲しみを語る。

  月は、中天に昇り、いつしかはらはらと雨が落ちてきて、

  ふとわれに返る。柳田国男も南方熊楠の姿も消えて、

  あとには、秋の虫の音だけが、響いていた。

  月夜の晩には、遺跡に閉じこめられていた、

  いにしえの想いを一瞬解き放つのかもしれない。

  それは、夢幻能十六夜とでもなづけられるべきもので

  あろうか。

いつの日か、この縄文の遺跡で、満月の夜、能の上演を

見てみたいものである。

いずれにしても、1999年に始まったお月見は、毎年続き

去年で6回を数えた。それほど私たちを引きつけて離さない。

今年もおそらくお月見が行われるだろう。その情報は、

この日記でお知らせしたい。

あなたもぜひ縄文の遺跡でのお月見を体験してみませんか。


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by kitanojomonjin | 2005-03-18 14:46 | 縄文 | Comments(0)

 
  以前、北海道の考古研究者で、市民運動にも

  携わっているAさんから、

  「インターネットは、縄文的コミュニケーションだ」

  といわれたことがある。

  そのときは、いまひとつ飲み込めなかったが、

  ブログを立ち上げてみて、少しそのことが

  わかるような気がし始めた。


  縄文人にとって、聖なる季節・冬。

  それには、実は、深い意味があるらしいことを

  最近知った。

  中沢新一の「カイエ・ソバージュⅡ・熊から王へ」

  によると、アメリカ北西部の先住民は、

  冬になると、夏の首長とはまったく違った、

  いわば秘密結社のリーダーを戴くようになるという。

  「冬の期間につくられる秘密結社には、ほかにも
  まだたくさんの興味深い特徴があります。
  夏の間には、人々は社会的アイデンティティを
  持っていました。(それは家族という単位をもとにした
  個人の位置づけにかかわるもの)」

  「ところが、冬になると、こういうアイデンティティは、
  すっかりご破算にされてしまいます。
  秘密結社がそれとはまったく違う規則によって、
  人間関係を完全にシャッフルし直してしまうからです。」

  夏の人間関係をシャッフルして、冬には、

  秘密結社を中心に、ひたすら「冬の祭り」に専念する人々。

  人々を冬の祭りに突き動かしたものは何か。

  興味が尽きないところである。

  中沢新一は、これは、縄文の人々にも通じる姿だという。

    さらに、論を進めて、夏のリーダーと、

  冬の祭りの「たましい」のリーダーが

  最後まで合体せずにいたこと。

  このことが、アメリカ北西部の先住民社会でも、

  縄文の社会でも、

  「国家が、いつ生まれてもおかしくないような
  条件を十分に備えていながら、自分の
  内部からはけっしてつくりださなかった」のだという。

  これは、きわめて魅力的な説である。

  聖なる季節・冬の意味合いをこれから、じっくり

  考えていきたい。


  それはさておき、縄文時代の情報の方向性は、

  夏には、垂直に上から下へというイメージが

  あるのに対し、冬になると、

  垂直に下から上であったり、水平に、横から横へと

  ひろがっていくイメージである。

  この構図こそ、実は、現代のメディアの中で、

  ブログが持っている方向性と極めてよく似ている。

  その意味においても、インターネットの中で、

  ブログこそ縄文的なコミュニケーションといえそうである。
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ブログは新しい扉を開く?
(渋谷ブロギニスト通りにて)

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by kitanojomonjin | 2005-03-08 17:01 | ブログ論 | Comments(0)