カテゴリ:縄文ドリーム大学( 5 )

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(縄文塾で縄文人の旅について語る小林青樹さん)
(写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

縄文塾で、以前、考古研究者の小林青樹さんから、
びっくりする話をうかがった。
東日本の縄文人が、西日本に旅をしているというのだ。

小林さんは、土器もち寄り会という研究会を続けたところ、
縄文晩期の西日本の土器に混じって、東日本の土器が
出土している事を発見した。

これは、土器が移動したのか、ヒトが移動したのか
どちらかである。

さらに調査すると、西日本の土を使って作らた
東日本のタイプの土器が発見された。

同じ縄文土器でも、この時代シンプルな西日本の土器に
比べ、東日本の土器は、個性的な装飾が施されていて、
西日本の縄文人が作ることは極めて困難である。

したがって、東の縄文人が西日本に来ていたとしか
考えられないという。

では、何のために?

ここからさらに驚くべき話が続く。

小林さんの考えはこうだ。
折りしも、このころ西日本には、新しい稲作技術が
中国や朝鮮半島からもたらされていた。
東の縄文人は、その新しい技術を知るために、
西へ移動したのではないかという。

にわかには、信じられない話ではあるが、
本当なら、私たちの先祖の縄文人は、昔から
ずいぶん好奇心旺盛で、新し物好きだった
ことになる。

それにしても、縄文人の旅というのは、
いったいどんな具合だったのだろうか。
謎がどんどん深まっていく。


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by kitanojomonjin | 2005-05-20 11:57 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(三内丸山遺跡を訪れた石毛直道さん・左)
(写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

梅棹忠夫さんについで、国立民族学博物館長に
なられた石毛直道さんも、三内丸山遺跡を
訪ねられた。

その時、とても興味深いお話をうかがうことが出来た。
その精神が、縄文の市民運動の大きな支えに
なったともいえる。

石毛さんの話では、縄文時代の味付けも調味料も
現在ほとんどわかっていないという。

石毛さんは、マタギの習俗に注目する。
マタギの習俗では、春、若葉を食べたカモシカの
腸の中味を搾り出し、肉につけて食べる。
このペースト状のものが、香ばしい調味料の
役目を果たした。
縄文人も、こんな工夫をしていたのではないかという。

さらに、縄文時代の調理法や用具については、
ほとんどわかっていないという。

ここで、石毛さんは、声を大にして言われた。
「現代人のくらしの中からもう一度縄文のくらしを
 見直してみるーそういう縄文生活学が今こそ
 必要なんです。」

それは、考古学者に任せきりにせず、一般の人々も
参加すべきだといわれた。
なぜなら、一般の人こそくらしの達人なのだから。

その精神を反映してか、かつて青森市の市場団地で
縄文のシンポジュウムが開かれたと聞く。

魚屋さんや八百屋さんが、縄文人のことを考える。
想像するだけで、楽しくなってくるではないか。

現に、青森の市場団地の店頭に並んでいる魚や
山菜は、縄文時代とほとんど変わっていないのだから。


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by kitanojomonjin | 2005-05-20 11:38 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(三内丸山遺跡を訪ねた梅棹忠夫さん)
(写真提供 NPO三内丸山縄文発信の会)

青森市の三内丸山遺跡は、1994年一躍注目を
集めた。

そのきっかけは、直径1メートル近い柱穴が、
2個ずつ並列に6個発見されたのが発端だった。
しかも、柱の一部が腐らずに一部出土したのである。

弥生時代の吉野ヶ里遺跡にも、望楼という木造の
巨大建造物が立っていたことが知られていた。
ひょっとしたらその望楼より高いかもしれないと
言うので大騒ぎになった。

吉野ヶ里の望楼より高いかどうかは別にして、
その後、柱穴の底の土に加えられた圧力を
計測したところ、10メートル以上の柱が林立して
いたことは、間違いないと見られている。

現在、ロシアからクリ材が輸入されて、遺跡に
15メートルの高さの柱が6本復元されている。

三内丸山遺跡を訪れた国立民族学博物館の
元館長の梅棹忠夫さんは、これは神殿ではないかと
指摘している。

縄文時代を起点に、日本列島に、弥生時代の吉野ヶ里、
後の時代の出雲大社の巨大なやしろにまで連なる
巨木文化があったのではないかと梅棹さんは、イメージを
広げていく。

そしてその延長線上に、法隆寺を置くことは
出来ないだろうか。

中国の寺社建築の渡来技術を駆使して、渡来の
技術者が腕を振るったのが法隆寺であることは、
間違いない。

ただその過程で、日本古来の巨木文化を
何らかの形で取り込んだ形跡は、ないのだろうか。

法隆寺が、東アジアで、翻れば、世界最古の木造建築
として、存在する背景を探ってみたいと思う。


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by kitanojomonjin | 2005-05-19 19:12 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(写真提供 NPO法人 三内丸山縄文発信の会)

クジラを手がかりに、縄文の海の道を考察する
ユニークなお話が、1998年9月の縄文塾であった。
講師は、現在、地球研教授の秋道智弥先生。
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津軽海峡をはさんで、青森県の陸奥湾と北海道の噴火湾は、
クジラが回遊するのに最適の海だという。
しかも、北海道の南茅部の大船C遺跡からは、クジラの
骨が大量に出土し、青森県の三内丸山からは、
クジラの骨で作った刀が出土している。

このことから、秋道先生は、次のように推論する。
「道南の噴火湾がクジラの漁場としては、非常に
重要であったことは、おそらく間違いありません。
そこで考えなければならないのは、三内丸山みたいな
センターがあって、そこがクジラの消費地になって
いたのではないかということです。」

秋道先生は、クジラの生態および遺跡の骨の分布から
縄文の海の道を浮かび上がらせようとしている。
クジラが、縄文時代をよりいっそう語り明かして
くれるかもしれないのだ。


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by kitanojomonjin | 2005-04-15 20:36 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)

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(北海道・礼文島船泊遺跡・日本人はるかな旅展・図録より)

東アジアの海の道が、広がっていたのは、
中世にとどまらない。
縄文時代もそれに劣らず、海を通じて広い交流が
あったことが、明らかになっている。

わたしたちは、これまで縄文塾と名付けて、講師の
先生を招きお話を伺ってきた。この10年その数50回近くなる。
いつの日かその一端を市民向けの縄文講座に展開できたら
と願っている。名付けて、縄文ドリーム大学。
ひとまず、ブログで、随時紹介していこう。

2000年10月の縄文塾での西本豊弘先生(歴博教授)の
北海道・礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡のお話は
とても興味深いものだった。
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礼文島の船泊遺跡は、日本海の北の交易拠点であり、
南は九州、沖縄から、北は、サハリンをはじめロシア極東地域と
交易をしていた可能性が強く浮かびあってきたのである。

遺跡の発掘調査によると、貝玉がおよそ2万点と貝玉を
作るためのメノウ製の錐が、およそ10万個出てきた。
ここは、まさに、縄文のアクセサリー工房だったのである。

まず北を示すものはー
西本先生のお話では、「礼文島では、ロシア極東地域で
出ている貝玉のすべてのタイプがそろっている。
ロシアの貝玉は、礼文島で作られ海を渡っているのでは
ないだろうか。」という。

次に、南を示すものはー
九州や沖縄にしか生息していないイモガイの装飾品が出ている。
このほか、南の暖かい海のマクラガイ、タカラガイも
多数出ている。

これらの各地の貝玉から、縄文時代、日本海に広がる
海の道(海道)の世界が浮かび上がってくる。
なんとロマンあふれる話ではないか。


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by kitanojomonjin | 2005-04-15 19:50 | 縄文ドリーム大学 | Comments(0)