カテゴリ:司馬遼太郎さんの津軽路( 10 )

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いま、横浜の日本新聞博物館で、興味深い展覧会が

開かれている。

題して―

   孤高の新聞「日本」ー羯南、子規らの格闘

そこに、作家司馬遼太郎さんが、青木彰氏に宛てた

手紙が展示されているという。

司馬さんほど、明治の新聞「日本」を主催した

言論人・陸羯南を愛したひとは、いなかった。

手紙には、こう書かれている。

「たれか、講師をよんできて

“陸羯南と新聞「日本」の研究”というのをやりませんか。

もしおやりになるなら、小生、学問的なことは申せませんが、

子規を中心とした「日本」の人格群について、

大風に灰をまいたような話をしてもいいです。

露ばらいの役です。」


ちなみに、この展覧会の図録の表紙には、

陸羯南の写真の右に、

終生、陸羯南を愛し尊敬し続けた正岡子規の写真が

彼の言葉「陸氏ノ言ヲ思ヒ出スト、イツモ涙ガ出ルノダ」

とともに、添えられている。


会場へ行って、司馬さんの手紙の

現物をじっくり見てみたいものである。

(会期は、8月9日まで。)

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by kitanojomonjin | 2015-07-25 16:17 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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いま、弘前の郷土文学館で

「作家が描いた津軽」というスポット企画展が

開かれている。

その中に、作家司馬遼太郎さんの

1994年の津軽の旅も紹介されている。

とりわけ、司馬さんは、

吉田松陰が訪れた弘前の旧家に

関心を寄せられた。


郷土文学館の場所は、

弘前城の追手門の前。

さくら祭りで、弘前を訪れたひとは、

ぜひのぞいてみたら?

6月30日までの期間限定である。

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by kitanojomonjin | 2015-04-26 11:13 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(週刊朝日・3月24日号より)
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(津軽路の司馬遼太郎さん)

週刊朝日の最新号(3月24日号)が届いた。

グラビアの連載「週刊・司馬遼太郎」は、吉田松陰の
シリーズ。

街道をゆく「北のまほろば」で、司馬さんが、
津軽を訪ねたことを紹介している。

司馬さんが、津軽を訪ねられたのは、1994年。

あれから、12年の歳月がたった。

いまでも思い出す。
司馬さんは、津軽半島に、吉田松陰の影を
追っていたのだと。

ちなみに、週刊朝日のこの号には、
先日開かれた「菜の花忌シンポジウム」の
要約も紹介され、なかなか読み応えがある。


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by kitanojomonjin | 2006-03-15 11:50 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(1)

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(雷雲・ブロギニストの散歩道から)

作家司馬遼太郎さんは、1994年1月と7月、2度
青森を訪ねられた。
お別れする時、青森空港まで見送りに行った。

「司馬さん、今度お見えになる時は、
ぜひ、りんごの花の咲く時においでください。」
わたしは、そんなお願いをした。

毎年、青森の桜の見ごろは、5月の連休のころである。
弘前公園の桜が、全国的に有名になっている。

しかし、地元の人間にとって、一年で一番いい季節は、
桜の賑わいが終わった5月中旬からのりんごの花の
季節だと思う。

りんごは、白くて可憐な花をつける。
けっしてハデではない。
農家の人は、田植えの準備や農作業に忙しい。
あまり注目されないこの時期、ゆっくり津軽路を
旅すると、北国のようやく遅い春が来たと言う実感が
ひしひしと伝わってくる。

そのとき、司馬さんは、「そうですか」といって遠くを
見つめるまなざしをされた。

それから2年後、突然の病で、司馬さんは亡くなられた。
時々、「そうですか」という司馬さんの表情を思い出す。

司馬さんの旅の流儀は、とにかく現場に立つことだった。
「たとえ廃墟になっていて一塊の土くれしかなくても、
その場所にしかない天があり、風のにおいがあるかぎり、
かつて構築されたすばらしい文化を見ることができるし、
動きつづける景色を見ることができる。」

「山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねば
ならない。」

今も、司馬さんは、その場の風を感じるため、日本のどこか
世界のどこかを歩き回っておられるような気がしてならない。


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by kitanojomonjin | 2005-08-15 11:13 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

1991年秋、津軽を襲った台風は、りんご畑に
大打撃を与えた。
その時、東京にいたわたしは、こころ穏やかでは
いられなかった。

その後、わたしは「りんごの涙」という文集に出会った。
1991年台風を経験した小学生の作文・詩を
まとめたものだった。

そのうちの一編。
「ぼたぼた ぼたぼた
畑で りんごの落ちる音がする
りんごの落ちる音は
お母さんのなみだが
落ちる音だ」

さらに、心をうつのは、当時小学1年の女の子が書いた詩
「でかせぎ」。

「きのうね
おとうさん
いっちゃった
ほんとに
いっちゃった

おうまさんに
なるって
いっていたのに」

この文集を作家の司馬遼太郎さんに送った。
いささかウエットな詩は、司馬さんの世界とは、
遠いかなと思った。

しかし、津軽という所は、太宰治や棟方志功だけが、
代表しているのではなく、ふつうの人々のかなしみや涙で
できていることを知って欲しかった。

驚いた事に、司馬さんは、この文集で「街道をゆく・
北のまほろば」の最後を締めくくられた。

「どうも、青森県では、りんご園で育ったこどもまでが、
りんごの木は家族だとおもっているらしい。
「りんごの涙」という小学生たちの文集を読んで
そのことがよくわかった。」

「津軽や南部のことばをきいていると、そのまま詩だと
おもうことがある。
この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を
終える。」

津軽を構成するもうひとつの底流を
しっかり受け止めていただいた気がして、
とてもうれしかった。


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by kitanojomonjin | 2005-08-12 16:12 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

弘前の亀甲門の前に、石場家がある。
そこのおばあさんは、かつて、とても魅力的な
津軽弁を話す事で知られていた。

津軽弁にも、古くは男ことばと女ことばがあった。
石場のおばあさんは、その古きよき女ことばの
風韻を漂わせていた。

詳しく説明できないが、たとえば、語尾に
「そんでねし」と「ねし」が付く。
それが、フランス語の「ネスパ」を思わせるほど、
魅力的な響きを持つ。

1994年春、桜の季節を前にして、石場家を訪ねた時、
問わず語りに石場のおばあさんが話してくれたはなしは、
今でも忘れない。

「毎年今ごろになると、この家に嫁に来てよかったなと
つくづく思う。
裏の梅が咲いたと思ったら、表の(弘前公園)の桜が
咲く。」

「でも桜は、今咲くか今咲くかと待っているときが
一番楽しい時。
ちょうど、娘の成長を見ているようなもので。」

以上のはなしが、津軽弁の古き女ことばで話された。
たとえば、最後のくだりは、
「おなごわらしが、おがっていぐのをみでるんたふうだきゃ
ねし」といった具合である。

これは、とてもいろっぽい風情でしたと、手紙で報告したら
司馬さんは、とても興味を示してくれた。

市井の魅力的な人にも、作家司馬遼太郎さんは常に
最大の関心を抱いていた。
作家であり、その前に新聞記者であった司馬さんは、
人間が好きだった。

特に、石場のおばあちゃんのように、野にいながら
独特の風格をもっている人をことのほかよろこんだ。

街道をゆく・北のまほろばでも、石場のおばあちゃんに
会い、石坂洋次郎の話を聞いている。

「広い土間に入ると、幸い、家刀自が在宅しておられた。
家刀自は細面の美人で、板敷のはしに端座された。
茶目っぽい微笑が、油断ならなかった。」

津軽に代々続く商家のおかみさんとして切り盛りしてきた
石場のおばあさんの姿をよく捉えている。

その後、まもなく心臓の発作で亡くなられた。
痛みがあったはずなのに、その顔は眠るように
穏やかだったという。

美しい津軽弁を話す人が、またひとりいなくなった。


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by kitanojomonjin | 2005-07-29 19:38 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(ブロギニストの散歩道から)

司馬さんが、津軽を訪ねた時、吉田松陰に想いをはせた
もうひとつの場所が、弘前市の養生幼稚園だった。

ここは、梅軒伊東広之進の旧宅である。
梅軒は、憂国家として藩外まできこえた存在だった。
松陰は、ここを訪れ、北の海防について質問したという。

司馬さんを養生幼稚園に案内するというと、
「古い積木が面白いですよ」と
弘前の藤田晴央さんが教えてくれた。

司馬さんの取材方法は、事前に徹底的に資料を読み込む。
現地へ行った時は、そのことを確認することが多いという。
とすれば、司馬さんを喜ばせるには、資料に記されていない
エピソードあるいは、モノを探し出すしかない。

この積み木には、司馬さんも喜んでくれた。

「なるほど、室内に入ると、大きな積木からして古びている
ことに驚かされた。どの木も明治以来、園児と遊び続けた
ために、四角の角(かど)が丸くなっているのである。」

この幼稚園のつながりの古い座敷が、吉田松陰が
訪れた部屋であった。
沈黙が続いた。
司馬さんは、しばし松陰に想いをはせているようだった。

司馬さんの松陰に寄せる気持ちが、ひしひしと伝わる
一文がある。

「吉田松陰は、通称寅次郎、二十九歳で世をおえる。
小柄で、清雅な容貌をもっていた。
全身に倫理感情を湛え、一挙手一投足にも論理があった。
その思想は明晰で、一点の暗さもなく、澄明な気分で
世を送った。
それだけに、はかなげでもあった。」
(街道をゆく・北のまほろばより)

最高の賛辞である。
その部屋に、松陰の気配が色濃く立ち込めているかの
ようだった。


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by kitanojomonjin | 2005-07-25 10:24 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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( ムクゲの花・ ブロギニストの散歩道から)

1994年司馬遼太郎さんの津軽路の旅は、3人の
人物を意識していたように思う。

まず、青森県金木町出身の作家・太宰治。
(このブログでも触れた。6月12日付)
次に、弘前出身の明治の言論人・陸羯南。
(これについても、このブログで既に触れた。7月19日付)

そしてもう一人、幕末の志士、吉田松陰である。
松陰は、1852年(嘉永5年)、友人宮部鼎蔵とともに、
東北旅行をし、青森の津軽半島を訪れている。
ペリー来航の前年に当たる。

吉田松陰このとき22歳。
国際的に緊迫した北の海をその眼で確かめるため、
冬の津軽半島の道なき道をたどったという。

津軽半島へは、1994年の夏マイクロバスで行った。
行きは、海外線だったが、帰りは曲がりくねった山中の
道を通った。

その時のことが、街道をゆく・北のまほろばに出てくる。
「私は、谷ごとに谷底を見た。
松陰のことをおもった。」

松陰の日記によれば、雪の深さ2・3尺の山道を
22歳の松陰は、ひたすら歩んでいたという。

「いまも松陰が、渉っていないかと、その文章を思いつつ、
谷底を見た。
松陰は小柄で痩せた青年だった。
武芸よりも書を読む人だった。
その松陰にして、水をわたり、あるいは積雪にまみれ、
旅衣の乾くいとまもなく、この道のない地形を
踏破したのである。」

あの時、マイクロバスの最前列でじっと、外の風景を
見つめていた司馬さんは、青年吉田松陰に思いを
はせていたのだ。
ひょっとしたら、一瞬松陰の姿を垣間見たのかもしれない。

松陰は、この旅から7年後、安政の大獄のとき刑死する。
常に、実証精神で現場を踏もうとした松陰の想いが、
いまも新鮮に感じられる。


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by kitanojomonjin | 2005-07-24 16:47 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(1)

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(弘前の街から望む岩木山)

1994年、作家司馬遼太郎さんが、街道をゆくの
取材で、津軽を訪れた時、たまたま津軽を案内する
機会があった。

その年の1月、雪の青森のグランドホテルで、司馬さんと
お目にかかったとき、最初に出たのが、陸羯南の漢詩の
話だった。

「名山名士を出だす
此語久しく相伝う
試みに問う巌城の下
誰人か天下の賢」

弘前高校時代、いつもS先生がこの詩を披露し、
ぐるりと見渡して、
「名山名士を出だすというが、いまだに名士が出ていない。
諸君奮起せよ」
と発破をかけられましたと報告したら、司馬さんは
そうですかとうれしそうに聞いておられた。

明治の言論人・陸羯南(くが・かつなん)が、こんな
形でふるさと弘前で語り継がれていることを
うれしく思われたのだろう。

司馬さんほど、明治の言論人陸羯南を高く評価した
方はいない。
津軽路の旅で、太宰治の次に登場したのが、陸羯南の
話だった。

新聞「日本」の主宰者だった陸羯南は、正岡子規を
終生面倒みた人物としても知られている。
子規は、陸羯南を徳の人とたたえ、尊敬していた。
病気で激痛に悩まされた子規を陸羯南は、つきそい
励ました。
徳のある人に、手を握ってもらうと痛みも和らぐと、
子規は、手紙に記している。

司馬さんは、ここまで話すと、決まって身を乗り出して、
「このような徳の人・陸羯南の魅力をしっかり描いたものは
まだない。
それは、あなたたちの仕事ではないですか」
といわれた。

とにかく、陸羯南の周りには、彼を信奉する人々の輪が、
出来ていたという。

明治の言論人陸羯南の魅力を改めて、浮き彫りにすること
それが、司馬さんから託された宿題である。

まだまだ、その実現には時間がかかりそうであるが。



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by kitanojomonjin | 2005-07-19 14:10 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)

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(岩木山)

1994年、作家司馬遼太郎さんは、街道をゆくの取材で
津軽をはじめ、青森県を訪ねられた。
たまたま青森にいたわたしは、司馬さんの津軽路の旅を
案内する機会に恵まれた。

あれから10年余り。
旅の思い出をすこしずつたどってみたい。

津軽は、わたしのふるさとである。
津軽を案内するときの悩みはたったひとつ。
天気が晴れて岩木山が見えるかどうか。

岩木山が見えさえすれば、津軽路の旅の案内は、
何の問題もない。
岩木山のみえる最適スポットにご案内すれば、
あとはそそり立つ岩木山が様々な表情を見せ、
語りかけてくれるのだ。

ところが、司馬さんが津軽に見えたのは、
一年のうちで、岩木山の見える確立の最も低い
冬1月のことだった。

結論からいうと、その日奇跡的に、晴れ間から
岩木山は顔を覗かせてくれた。
しかも、わたしたちが、小さい時から岩木山を
望むなら第一の場所と教えられてきた場所で。

それは、弘前城本丸から望む岩木山である。

司馬さんは、岩木山の印象を「街道をゆく・北のまほろば」の
中で次のように記している。

「私ものぼりつめてから、天守閣を見るよりも、
台上の西北が広かつに展開していて、吸い寄せられるように
天を見ざるを得なかった。
その天に、白い岩木山が、気高さのきわみのように
しずかに裾をひいていた。
息をのむ思いがした。」

案内役としては、ほんとうに、岩木山に感謝という気持ちだった。

そしてこの時、司馬さんは、弘前城本丸の主人公は
岩木山であることを看破された。



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by kitanojomonjin | 2005-07-09 16:20 | 司馬遼太郎さんの津軽路 | Comments(0)