カテゴリ:ドキュメント三内丸山( 4 )

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縄文ファイルゼロ号を出したのは、ちょうど10年前の
1995年の8月のことだった。
三内丸山縄文発信の会の立ち上げのメッセージを載せて
広く会員を募った。

そこには、新しい市民の会の意気込みが込められている。

「三内丸山を契機に今、専門家から市民に至るまで
起きつつある新しい動きーそれを新しい縄文学ととらえ、
1995年を縄文元年と名づける事もできるでしょう。」

「この縄文元年にあたって、三内丸山遺跡の縄文の
情報を世界に発信する三内丸山縄文発信の会の設立を
ここに提唱します。」

かくして、現在地元青森をはじめ、東京・大阪・仙台に
支部ができて、市民300人あまりの方が、会員になっている。

NPO法人の例にもれず、会員からの会費を財源とした運営は
なかなか厳しいが、この10年活動を続けてこれたのは、
多くのみなさんの応援のおかげだと思う。
感謝。

評論家の森本哲郎さんのアドバイスで、単なる同好会に
しないために、将来の縄文研究センターの創生を
働きかける事を目標に掲げた。

ゼロ号のメッセージは、次の文章で終わっている。
「地下に真実、地上にロマン。
発掘を担当する人たちの間で語り継がれている言葉
だそうです。
わたしたちの会は縄文発信を通して、21世紀に向けて、
真実とロマンの橋渡しをしたいと考えています。
ともに第一歩を踏み出すべく、ご賛同のほどよろしく
お願いいたします。」

あなたも一緒に会員になって、世界に縄文発信しませんか。

詳しくは、三内丸山縄文発信の会事務局まで
       tel.017-773-3477


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by kitanojomonjin | 2005-07-22 19:52 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)

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(三内丸山遺跡カタログより)

1994年青森市の郊外に姿をあらわした三内丸山遺跡は、
野球場予定地がそっくり、縄文の大集落のほぼ全容を
示すものだった。

これを天地人の「地の利」とすれば、「人の利」にあたるのが
現地説明会への圧倒的な参加者の数である。

最高気温33度の炎天下、8月6日・7日の2日間にあわせて
8000人の人が、現地を訪れた。

その時の人々の肉声を当時朝日新聞社青森支局にいた
阿部俊幸記者が、縄文ファイルに次のように紹介している。

青森市の85歳の男性
 「柱はよく残っていた。驚いた。そばに住んでいるので、
  足を運ばないと申し訳ないと思った」

青森商業高校の16歳の男性
 「自分が住んでいる所に、こんな大きな遺跡があったことが
  うれしい。すごい、というのがわかった」

神奈川出身の東海大生(考古学専攻)
 「とにかく規模が大きい。こんな遺跡は全国でも例がない。
  見ているうちに鳥肌が立った」

一面、縄文土器が散乱している光景は、確かに鳥肌がたったが、
それを見学する市民が8000人も集まったことは、
それにもまして鳥肌が立つ出来事だった。

そのことを作家の司馬遼太郎さんに報告したところ、
感激のおハガキをいただいたことは、6月19日の
このブログで紹介したとおりである。


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by kitanojomonjin | 2005-06-30 14:25 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)

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(写真提供 NPO法人三内丸山縄文発信の会)

三内丸山遺跡が、デビューするには、いくつかの幸運が
重なっていた。
もう一度、三内丸山の航空写真を見ていただきたい。
野球場の建築が大分進んでいた。
このエリアが、奇しくも、三内丸山遺跡の中心部と
ほぼ重なっていたのである。

まず、上部の南北に走るブルーシートの部分が、
北の谷といわれ、縄文時代のゴミ捨て場だという。
うるしの木製品や魚の骨など、ふつうは残らない
有機物が奇跡的に残されていた。
この谷を中心に、向かって左の一塁側スタンドには、
巨大木柱や大型住居跡が出てきた。
特別の聖なるエリアといわれている。
向かって右の三塁側スタンドには、子供の墓や
大人の墓のエリアが広がっている。
南には、小規模な竪穴住居がひろがる。

全体として、ここには、いろいろなエリアを持つ計画的な
大集落が、野球場建設予定地にピッタリ重なって、
姿をあらわしたのである。

なんという偶然だろうか。
遺跡としては、なんという強烈なデビューではないか。
これが、第一の幸運だった。
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by kitanojomonjin | 2005-06-29 19:34 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)

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(写真提供 NPO法人三内丸山縄文発信の会)

そろそろ縄文の市民運動のグループ・NPO法人
三内丸山縄文発信の会がどうして生まれたかを
お話しするときが来たようだ。

すべては、1994年の7月に見た衝撃的な光景から
始まった。

冒頭の写真は、そのときの航空写真である。
青森市郊外に、野球場建設が進められていた。
一塁側と三塁側のコンクリート打ちがすでに終わっている。

その時、およそ5ヘクタールの敷地一面に、縄文土器の
破片が散乱していた。

これは、縄文スタジアムとでも名づけるしかない
不思議な空間だった。

当時、現地を訪ねた考古学者の森浩一先生は、
「近畿地方でこれまで出土した縄文土器をすべて
あわせても、ここの1ブロックにもかなわない」
といわれた。

それは、通常のレベルを超えた発掘ぶりであった。

その光景は、そのまま、この野球場いっぱいの土器に
埋め尽くされた遺跡と、一個の野球場の、どちらを
選択するのかを見るものにつきつけずにはおかなかった。

その後の三内丸山をめぐる市民運動は、すべて
あの光景が出発点だったと思う。
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by kitanojomonjin | 2005-06-28 18:50 | ドキュメント三内丸山 | Comments(0)