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根岸の里の画狂人・中村不折 2014年11月7日

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先日、根岸の書道博物館を訪ねた。

明治の画家・中村不折が開いた博物館である。

ちょうど、訪ねた11月3日は、開館記念日ということいで

記念品をいただいた。

なにかのご縁である。

折りしも、中村不折の生い立ちをたどる

展覧会が。

「僕の歩いた道」という自伝が、復刻され、

そこに、興味深い画が、紹介されていた。

ほとんど真っ黒けの絵だが、

「憐れむべし自宅の写生」と題した明治26年の絵である。

画家を志して、上京した中村不折は、全く画が売れなかった。

その時の下宿先の写生である。

中央のランプ。

周りに散乱する描きかけの紙や史料。

左隅には、見にくいが、火鉢に鍋がかかっている。

大変な貧乏生活だったことがうかがえる。

(この画の実物が、いま展示されている)

中村不折が、正岡子規と出会い、「小日本」の

さし絵を描いて、収入を得られるようになったのは、

この翌年の明治27年のことだった。

そのきっかけは、根岸の住人で、正岡子規の事実上の後見人・

新聞「日本」の主筆・陸羯南(くが かつなん)だった。

陸が、囲碁仲間の画家・浅井忠に相談したところ

浅井が、中村不折の実力を知っていて、推薦したという。

陸羯南を慕っていた正岡子規は、羯南の隣に住むことになる。

その後少し場所は変わるが、それが、「子規庵」である。

その斜め向かいに、不折は、後にアトリエを建てる。

それが、今日の「書道博物館」に繋がっている。

一時、陸羯南、正岡子規、中村不折は、

目と鼻の先のご町内に住んでいたのである。


根岸の里に培われた熱い友情が、

今も、この一角には、息づいているような気がする。


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by kitanojomonjin | 2014-11-07 17:44 | 人生