昭和20年8月16日上野駅 2009年8月14日

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中村稔氏の「私の昭和史」戦後篇上の

最初のページを見て、びっくりした。

敗戦の翌日の昭和20年8月16日。

中村さんの一家は、上野駅から父の任地

青森に向けて出発した。

中村青年は、18歳だった。

午後6時発の列車に乗り込む。

車内の様子。


「通路まで立錐の余地もなかった。

午後6時、列車は、上野駅を出発し、

やがて日が暮れた。

大宮を過ぎるころ、私たちは持参した

握り飯をたべた。

各駅停車の列車は仙台に着くころ

夜がしらしらと明けた。

仙台を発車すると、

だいぶ車内の混雑が楽になった。

朝食の握り飯をとりだしてみると、

饐えた臭いがが鼻についた。

米だけでなく、さつま芋や豆、

野菜などを混ぜこんだ握り飯だったから、

車内の熱気で腐敗していたのであった。

これはたべられないねえ、と母が言った。

妹が火のついたように泣いた。」


見事な描写である。

中村さんの一家にとって、戦後の思い出は、

『饐(す)えた握り飯』だった。


家族を尻内駅(いまの八戸駅)に降ろし、

中村青年は、そのまま青森駅にたどり着く。

翌日の夜7時。

上野駅から、25時間かかった。

さらに、駅から4キロの青森の刑務所に勤務している父の

もとに、徒歩で向かったのである。

青森刑務所は今も同じ場所、県立図書館の脇にある。


「空襲で全焼していた青森の市街地には

ほとんど灯がともっていなかった」という。

やっと父のもとにたどり着いて、どんぶり一杯の

七分搗きの米飯と味噌汁と漬物を食べ終えたとき、

「心底から満ち足りた思いであった」という。

青森は、東京に比べ、食料事情が豊かだった。


実に、実感がこもっている。

優れた戦後庶民史のドキュメントになっている。


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by kitanojomonjin | 2009-08-14 19:00 | 人生 | Comments(0)